戦前、日本の医者はドイツ流だった…ドイツに留学した医者のドイツ語はわかるが、日本育ちでも、カルテはドイツ語で書いていた…授業がドイツ語だったのだろう?

 カルテという言葉自体がドイツ語だが…なのに、往診の車はオペルではなく、英国製オースチンセブンが多かった。

 麻布四ノ橋から、看護婦を助手席に乗せてウチに来る先生も、セブンだった。

 だから、オースチンは、小型の大衆車だと、長年思い込んでいた。

写真:戦後のベストセラー大衆車オースチンA40&さらに安いA30。

 敗戦で進駐軍が来ると、日本はアメ車一辺倒になった…ジープ、ウエポンキャリアーに始まり、戦時色のシボレーやフォード、最高司令官が黒塗りのキャデラックだった。

 進駐軍は、連合軍だから多国籍…少数派のオーストラリアやニュージーランドはホールデン。ソ連軍はポペダやモスコビッチだった。

 進駐軍では第二勢力の英軍は、高級将校がハンバー・スーパースナイプで、司令官はRRではなく、オースチン125シアーラインだった。

写真:オースチン125シアーライン&ハンバー・スーパースナイプ/写真はリムジンだが高級将校用はショートWBのサルーンだった。

 占領が一段落して、米軍の家族が来ると、ピカピカの大型米車がふえて、楽しかった。

 第二勢力の英国は、小型車が多く、ハンバー、スタンダード、サンビーム、ライレイ、オースチン、ヒルマン、トラインフ、MG、ジャガーなどが、走り出した。

 英国車は、米軍関係者もたくさん買ったが、乗用車では、オースチンが多かった。

 大衆車だと思っていたオースチンが、125シアーライン発見で、高級車もあることが判ったが、更に高級なのがあることも判った。

 オースチン135プリンセスと呼ぶ、高級車だった…そして、プリンセスを間近に見たのが、1980年代だった。

 1980年代の日本は、バブルが膨らみ,景気の波に浮かれていた…自動車会社も元気で、三菱は、煙草のマールボロと組み、マカオグランプリの、冠スポンサーだった。

 両社、コーポレートカラーが白と赤だから、GPの一週間は、マカオの町中が赤と白に染まっていた。

 GP決勝の日、警察官が乗るたホンダ二輪に警護され、制服制帽の運転手で、静々とやってきた黒塗りの大型リムジンがあった。

 ラジェーターグルルの形状からロールスではない…それが間近で見る、135プリンセス・リムジンだった。

 マカオ総督が、GP決勝を見に来たものだった…そうだ!オースチンには超高級車もあったんだと、改めて実感した。

 バンデンプラスのコーチワークは、黒い革の運転席、ガラスで仕切られた後席はモケット仕上げ。それはそれは見事なもので、美しい木目のウオールナット、丁寧な内装、一分の隙もない仕上がりに見惚れてしまった。

 大きな車体なのに、車重わずか1.6トンは、アルミ製だからだ…斬新なOHVのストレイトシックスは3992cc・SUキャブ三連装で130馬力。

 三本スポークで反射鏡を支える、独特なヘッドランプはルーカス社製…WB3029㎜のロングホイールベース・リムジンとカタログにあった。

 1960年代、ロンドンのシティーで、銀行や役人の偉い達が、135プリンセスで走っていたが、運転手のほとんどが、たくましいオバサンだった。

「戦争中男不足で女が狩出されたが戦後もそのまま・昔は可愛い娘達だったんだ」と英国の知人が教えてくれた。

 しきたりにウルサイ英国では、偉い役人は135か125。貴族や金持ちがロールスロイス。王室はダイムラーだったが、エリザベス女王の時代にRRになった、とも言っていた。