1964年、第11回東京モーターショーで、注目を浴びたのが、シルビアだった。

 ショーでの名は、ダットサン・シルビアだったが、発売時には、日産シルビアになった。

 戦前に、小型車の代名詞的存在だったダットサンの名を、戦後の日産経営者達は、嫌い始めていた。

 が、1960年に渡米した片山豊は「フェアレディーなんて女々しい名でスポーツカーが売れるか」と、米国で売る日産車名を、ダットサンで統一した。

 で、売れ始めた、ダットサン1500=日本名フェアレディー1500=SP310型は、1600になりSP311に…それをベースに開発したのが、ダットサンシルビアだった。

 が、日本での発売時には、日本では嫌いなダットサンではなく、日産シルビアだった。

 初対面で、美しいラインや面の処理に、評論家達はブルーバード410の例もあり「ファリナのデザインだろう」と言った。

 が、舶来デザインは当たりだったが、ファリナではなく、当時米国在住のドイツ人、ゲルハルト・ゲルツだった。

 プレスリーが、米軍兵士として、ドイツに駐留している時に買った、高価なスポーツカー、BMW507をやった、デザイナーだった。

 シルビアは、全長3985x全幅1510x全高1275㎜。スタイリング優先の、背が低く感じるクーペだったが、運転席に座ると、見た目よりヒップポイントが高く、視界も良く、居住性も良かった。

 車重980kgのボディは、ドアとボンネット、トランクリッドを外すと、継ぎ目のない一体プレスというのが特徴だった。

 いかにも熟練職人の手造りといったインテリアは、内装やシートが真っ白な革張りで、汚したら困るな、と一瞬尻込みするほどだった。

写真:船橋サーキットでジムカーナ走行中の湊謙吾SCCN会長&JAFスポーツ委員長/本業はミナト製薬社長。

 SP311譲りの直四OHV・1595cc・SUキャブ二連装で90馬力・4MT・最高速度165粁・ゼロ400m加速で18秒を切った。

 SP311からの派生とはいえ、意外な乗り心地の良さで、スポーツカーじゃなく、こいつはGTだと思った…モーターマガジンに試乗記を書いたら「それ見て買ったヨ」と、当時活躍中のレーシングドライバー立原義次が乗ってきた。

 ゴージャスな、シルビアの値段は、120万円だった…当時サニーが46万円の時代、国産車としては高すぎた。

 値段が高かいせいで、売れないシルビアは、直ぐに生産中止になるが、10年後に、突如よみがえった・

 初代シルビアは、男らしい美少年だったが、二代目は、美少女的美しさを持つルックスだった。

 当時としては、ズ抜けた美しさを備えたシルビアは、折からの石油ショックがなければ生まれていた、ロータリーエンジン搭載用として、開発されたものだった。

 石油ショックがなければ、日産はマツダに続いて、世界で二番目の、ロータリーエンジンを量産するメーカになっていたのだ。

写真:二代目シルビア報道発表会のノベルティー/マルマンのガスライター・喫煙者が大手をふり歩いている時代だった。

 ちなみに、シルビアとは、ギリシャ神話に出てくる、美しい乙女の名前だそうだ。