世界から遅れていた日本の乗用車技術を、WWⅡ後に、一気に取り戻そうと、日産と日野、いすゞが、欧州のベストセラー大衆車と提携した。

 で、昭和28年=1953年に、日野からルノー4CV、日産からオースチンA-40、そしていすゞからヒルマンが誕生。

写真:丸の内帝都ホテルとルノー4CV&箱根関所跡のオースチンA40&ヒルマンと江の島  

 NHKのテレビ本放送が始まり、東京盛り場に設置された、日本テレビの街頭テレビに、人が群がった頃だった。

 一方、トヨタは、独自に新車開発を目指し、昭和30年=1955年に、クラウンを完成した。

写真:多摩川読売新聞飛行場のクラウン/後の軽飛行機パイパーJA3018は偶然10年後に私の自家用機になった。

 が、日本ではクラウンの前に、もう一台の乗用車が完成していたのを、知っている人は少ない。

 それがP-1と呼ぶ車で、開発は富士重工…かつて東洋一の飛行機屋、中島飛行機をルーツとする,会社だった。

 開戦当時、米英戦闘機相手に無敵を誇った隼や、敗戦直前に米戦闘機を震え上がらせた疾風を造った飛行機屋だった。

写真:陸軍一式戦闘機・隼/オヤジがいた兜町の寄付機なので、愛国兜第二&第三の名が/一機20万円と聞いた。

 昭和30年、私は慶大航空部主将だった…で、その3年ほど前から、寄付金集めで、先輩を訪ね歩いていた。

 敗戦で落ちぶれ日本らしく、学校はグライダーを買ってくれなかった…で、OBが「どうせなら日本一のグライダーを造ってしまえ」ということになったのだ。

 小林一三、藤山愛一郎などから寄付を頂いたが、最後まで面倒を見てくれたのが、元川西航空機=新明和工業の川西龍三社長だった。

 新明和の東京事務所は、一丁ロンドンと呼ばれた、丸の内の赤煉瓦街にあった…製作資金が足りないと訪ねる新明和への途中、名前を知らない乗用車が、あるのが気になった。

写真:一丁倫敦と呼ばれた丸の内三菱赤煉瓦街/手前仲8号館・6号館/パーキングメーターがあるから昭和32年頃?。

 斬新なモノコックのフォードアセダン…当然外車だと思ったら、国産車で、群馬ナンバーが付いていた。

 そこは岸本ビルの前で、群馬に本社がある富士重工業=スバルの東京事務所があり、カッコいいセダンの名が、P-1だと判った。

 後日、スバルで聞いたら、P=パセンジャー、1=開発番号…ようは、スバルが手がける、最初の乗用車ということだった。

 もっとも、スバルの初作品は、スクーターの代名詞になった大ヒット作、ラビットだった…その試作車のタイヤが、敗戦で不要になった爆撃機・銀河の尾輪を倉庫で見つけて、という話は、有名だ。

写真:銀河尾輪のラビット試作車・三鷹工場/モデルは高峰秀子。

 さて、斬新なP-1は、不運な星の下に生まれた…その最初はエンジン。富士精密の48馬力搭載予定が、富士精密(後のプリンス)の旗揚げで、使えなくなったこと。

 次は、莫大な設備投資の金が得られなかったこと…メインバンクの日本興業銀行が、役員まで派遣した日産を優先したからだった。

 発売されていれば、P-1はスバル1500になり、クラウンより1年早い、昭和29年に誕生するはずだった。

 話変わって、日本自動車技術会というのがあり、各社の技術者があつまり、国産車を集めて遠乗り試乗で、評価するという、行事があった。

 発売はされなかったが、P-1も参加した…その評価は、クラウンを上回っていたと、聞いた。

 幻となったP-1は、未発売だったが、20台ほどが試作されて、社用車、また地元のタクシー業者の実走試験などに、使われた。

 その1台が、岸本ビル前の車だったのだ…時には、2台も駐まっていたことがあった。