終戦直後に、空襲で焼け野原になった街に、セコハンという言葉が、流行っていた…進駐軍の兵隊が話すセカンドハンドが、日本人にはセコハンと聞こえたのだが=中古品のことだった…今では死語になってしまったが。

写真:笠置しず子と服部良一のレコードジャケット/コロンビア33回転半LP

 昭和22年、ブギの女王・笠置しず子の♪セコハン娘♪が爆発的に流行し、美空ひばりも歌っていた…着物・ハンドバッグ・靴・恋人も、みなオ姉ちゃんのオ古、再婚した母の連れ子だからパパも二人目、といった服部良一作曲のコミックソングだった。

写真:美空ひばり/CD

 さて、2023年1月4日アップの{サンマンダイと呼ぶ乗用車}だが、1952年に外車の輸入解禁でサンマンダイは消滅した。が、外貨備蓄が底をつき、1955年から再度輸入禁止になったと説明した。それが日本外車市場での、セコハン時代の始まりだった。

 政府は、輸入禁止実施にあたり、抜け道を用意した…サンマンダイで懲りたのか、正規輸入車が丸々2年間使われた時点で、通関して日本に登録できるという制度だった。

 ようするに3年目を迎える中古車、いうなればセコハンが、日本人が公然と買える、新車ということになったのである。

 ヤナセやニューエンパイアなどから正規輸入車が買えるのは、各国外交官、進駐軍兵士軍属と家族、第三国人などで、彼等の車に2年目の終わりがちかずくと、業者=ブローカーが登場して、夜討ち朝駆けで、セコハンの争奪戦が始まるのである。

「使ったら安くなる」と常識的判断で売った車が、高い値段で売られていると兵隊達が気がつくと、セコハン値段が値上がりしていった。

写真:VWカルマンギア

 知人のシビリアンは自家用のカイザー1947年型を50ドルで売ると、ヤナセで2400ドルの1958年型VWカルマンギアを買ったが、2年目の終わりに業者同士の競り合いによる勝手な値上がりで、4500ドルに。それに500ドル足したら、1960年型ジャガーMK-Ⅱになったと喜んでいた。

写真:ジャガーMK-Ⅱ

 新橋の土橋から京橋まで、最初に開通した首都高は無料だった…今の有楽町マリオンは、朝日新聞と日劇の跡地で、その朝日新聞側に今でもあるが首都交から張り出した空地があり、そこは無料駐車場だった。

写真:日劇と朝日新聞の解体直後・首都交の右上の張り出し部分は駐車場だった/四六空撮

 そこにある日、見慣れた大阪ナンバーのカルマンギアが駐まっていた…「カッコーいい車ですネ」と声を掛けると、ドヤ顔で「大阪でタッタ1台・250万円もしたんです」…自慢の車のグローブBOXには、コンパウンドで取り切れなかったのか、私の、ガールフレンドが付けた、ハンドバッグの留め金の傷が、ウッスラと残っていた。

 とにかく、日本人の新車であるセコハンカーは、それからもドンドン値上がりしていった。