銀ブラという流行語は、昭和の初期に生まれたようだ。最新流行が並ぶ洋品店の、ウインド-ショッピングに疲れたら、コーヒーでも、というようだ。

 その銀座も、戦後になると、進駐軍からの横流し品など、輸入できない洋品を売る小さな店が、たくさん生まれた。

 そんな銀座並木通りの七丁目、資生堂本社の斜め前に、おシャレな洋品を売る、チロルと呼ぶ店があった。

 顔見知りの岡本太郎に会って驚いたこともあるが、伊丹十三や山口瞳、越路吹雪なども常連だったと聞く。

 チロルの主人は、店の名からも想像できるが、シャレた山男風で、サッパリとした気性の奥さんと二人で切り盛りしていた。

 名前の由来は知らないが、主人をボコさんと呼んでいた…ボコさんは、メッサーシュミットに乗り、毎日、自由ヶ丘からやってきた。

 ドイツ製の軽自動車で、正しくはメッサーシュミット・カビネンロッラーKR-175…1952年に登場した、タンデム型二座席車だった。

 2サイクル・175cc・9.7馬力・4MT・後1輪駆動・時速105粁はVWとアウトバーンで張り合える速さだった。

 1955年には、排気量を拡大したKR200が出現。全幅拡大で後席に+子供なら、三人乗れるようになった。

 独創的な、キャノピーを上に開いての乗降は、戦闘機みたいと思ったら、敗戦で戦闘機が造れなくなった、メッサーシュミット社の製品だと判った。

写真:自動車も戦闘機もルーフ横開きで乗降/自動車はトヨタ博物館蔵・飛行機はロンドンRAF博物館蔵。

 戦後ヨーロッパには、たくさんの軽自動車―いわゆるバブルカーが生まれたが、ほとんどが、世の中が落ちつくと消えていった。

 BMW・ハインケル・ツンダップ・チャンピオン・ゴッゴモービルなど、たくさんだった。

写真:ハインケルも元飛行機屋/日本自動車博物館蔵。

 戦前、オヤジの頃の銀ブラは、四丁目から京橋よりだったようだが、戦後の私のころは、四丁目から新橋よりだった。

 もっとも、終戦直後の銀座は、進駐軍の兵隊がカッ歩し、松屋百貨店はPX、服部時計店も接収され、教文館ビルにはライフやTIME、松坂屋百貨店地下のオアシスは米軍専用のダンスホールだった。

写真:空襲で焼けた銀座三越前/四丁目交差点をタイムズスクエアと命名・子供も戦闘帽に国民服・女はモンペ姿。

 ライオンビアホールも米軍専用で、尾張町と呼んだ銀座四丁目交差点では、米軍のMPが鮮やかな手さばきで、交通整理をしていた。

 私の銀ブラ終点は、有楽町…数寄屋橋角に朝日新聞、現在丸の内東映の所が読売新聞、ヨドバシカメラの所には毎日新聞があったからだ。

 朝日はハーレイやインディアン、読売は陸王、毎日はBSAやノートンなどが並んでいた…新聞社の連絡用大型オートバイを見るのが、銀ブラの最後だった。

 ちなみに、朝日新聞隣の日本劇場=日劇は、米軍の接収をまぬがれた…何故?と思った理由は、座席がないからだった。戦争中、風船爆弾作りのために、座席を取っ払ったままだったのが幸いしたのだ。