浅草には豚カツ屋がたくさんあるが、今日は、有名な一軒、ゆたかの話をしよう。

 ゆたかが在るのは、観光客でにぎわう、浅草街のド真ん中だが、なぜか観光客の通り抜けが少ない、細い路地に在る。

 隣は、地元客が多い{より道}…江戸っ子らしい老夫婦の小さな店で、鰻と十割蕎が旨い。

 ゆたかは、路地の奥くとは思えぬ、立派な店だ…路地裏の名店という人も居る。

 豚カツが旨いのは当たりまえとして、接客が良い…言葉遣い、所作、すべて良かった。

「豚カツはロースでなくっちゃ」という人は、あの脂身が好きなのだろう…が、ここのは脂身が少ない。私はヒレが好きだから、どうでも良いことだが。

写真:脂身が少ないロースカツ&ひれカツ。

 ゆたかのモットーは、揚げる鍋は一日何回も磨く&揚げ油を新しくするという…だから店に油の匂いがしない。そんなところも、人気がある原因なのかも。

 パン粉は自家製だという。胃もたれしないのも良い…焼き鳥も旨かった。

 ゆたかの創業は、終戦直後だと聞く…浅草界隈は、1945  年3月10日の下町大空襲で、焼け野原になった所だ。

 昔、戦争にはルールがあった。攻撃&爆撃は軍人と軍需施設のみという決まりだ…が、ドイツがロンドンを爆撃、一般市民に死傷者が出るようになって一変した。

 対する連合国軍の空軍司令官は、鉄のロバと異名を持つ、カーチスルメイだった。

 ルメイも、ボーイングB17爆撃機の大編隊で、ドイツの無差別爆撃を始めた…で、暗黙の戦争ルールは、どこへやら。

 そんなルメイが、ドイツの降伏で、太平洋戦線に転勤したのが、日本のウンの尽きだった。

 木と紙の日本家屋に爆弾では非効率…火を点けて燃やしてしまえ、と新型焼夷弾を開発した。

 完成したのは、集束油脂焼夷弾…油が入った1米弱の六角状筒を10何本か束にして投下すると、機外で結束バンドが外れて、バラバラに落ちていく。

写真:集束焼夷弾は投下直後に結束バンドが外れて分解しバラバラになって落ちていく。

 その一個一個に導火線が付いてるから、夜は花火のしだれ柳のようだった、とは佐藤健司。

 ルメイは、季節風が強い夜を待ち、出撃したボーイングB29爆撃機が300機をこえて、下町に投下した焼夷弾が38万発・1665トンだったという。

 まず先行したB29が、四個の大型50キロ焼夷弾を落とすと、それを目印に、集束焼夷弾を投下する。

 爆撃は先ず風下に、次ぎに風上に…で、風上から火に追われた市民は、塞がれた風下で逃げ場を失い、焼死・窒息死・水死(隅田川)、死者9万5000人と報告された。

「戦争に負けていたら私は戦犯・・」と、戦後になってルメイは言っていたそうだ…勝てば英雄ということなのだ。

 この絨毯爆撃と呼ばれる、無差別爆撃での焼失家屋27万戸、被災者100万にを超えたという。

写真:一夜で焼け野原になった下町/右下両国国技館/右上隅田川と新大橋と清洲橋。

 B29は、昼間は高射砲が届かず、日本戦闘機の性能が低下する、高高度爆撃だったが、夜には、命中精度が高い低空飛行なので、火災の反射で「B29の編隊機影が赤く見えた」と、当時中学生の佐藤健司が言っていた…「あとで死体を片付けるが大変だった」とも。