貴方がヘンリーJを知っていたら、古い車に詳しいか、昭和一桁生まれの、車好きオジンかもしれない。

{米国随一の経済車・1ガロンで走行30哩以上}とある…日本のカタログなのに、ガソリンの単位がガロン?距離がマイル?…不思議は、占領下の日本だったからかもしれない。

 1ガロン=約4ℓで、1哩=1.6粁だから、燃費は、12km/ℓということになる。

 このB5版のカタログは、見るからに見すばらしい…黒黄二色だが、昔、チラシ広告などの、安い印刷で使われた、活版印刷というやつだ。

 それが三菱という、一流企業のカタログなのだから…敗戦の後遺症が残る、日本経済の状況がうかがえる。

写真;ヘンリーJ/右フォード1952年&ヘンリーJのコクピット/コラムシフト・右下ヒーター/吹き出し方向可変。

 初めてヘンリーJを見たのは、代々木のワシントンハイツだった…まだ空襲の焼け跡にバラック小屋が残る都心から、原宿の金網に囲まれた米軍住宅地域に入ると、広々とした芝生の中に、平屋が点在する別天地だった。

 私を可愛がってくれた、マッカーサー司令官直属の会計監査・スチュアートおじさんのカイザーで行けば、警備厳重な米軍基地も木戸御免だった。

写真:カイザーと四六と級友小野澤忠男・右/六本木第八騎兵師団PX前ー現在ミッドタウン。

 当時の日本といえば、主食や衣類は配給切符という貧しい時代だが、基地の中は、憧れのハリウッド映画のような、豊かな風情だった。

 時には、若い女達のショートパンツ姿がまぶしかった…当時の日本人男子は、女の太モモが見えれば、興奮した…女の足は小学生まで。中学生になれば、人前で肌身をさらすことは、みだら行為とされて、育ったからだ。

 で、GHQは、青目の女達に、禁止令を出した…基地の外でのショートパンツ禁止令だった。

 若尾文子が、打ち寄せる波に、慌ててスカートを膝上まで、という噂が流れたら、男共が映画館に殺到、という時代だった。

 木戸御免のカイザーは、戦後生まれのメーカー、カイザーフレイザー社の車だが、その会社から生まれたのが、ヘンリーJだった。

 大型車ばかりの米国に、こんなチビ車が生まれたのは、ナッシュ社のランブラーが、思わぬ人気を取ったからだった。

 が、ヘンリーJは、人気者になれずに、1950年から53年で生産を終了した…そんな車を日本でと、技術提携でノックダウンしたのが、三菱日本重工・川崎製作所だった。

 が、大型一辺倒の米国で、戦後の新参KF社がヘンリーJを考えたのは、ジリ貧経営の悪あがきだったのかも…KF社は1953年に、ウイリス社に吸収された。

 その後、ウイリス社は、ヘンリーJをベースに、エアロウイリスを造ったが、やはり消えていった。

写真;エアロウイリス・丸の内/後方クライスラーと1930年代の米車。

 米国でヘンリーJが売れなかったのは、シボレーやフォードの廉価版より$100ほど高かったからと聞く…また日本での不評は、2ドアでしかもクーペだから。加えて、販売店がトラックの、ふそう販売だったからのようだ。でも、4ドアの3BOXだったら、様子が変わっていたかもしれない。

 結局、三菱で売れ残った車は、米軍PXが安値で引き取り、タタキ売りで終わったと聞いている。

 ちなみに三菱製ヘンリーJには、四気筒2199cc・68馬力・コルセアーと、六気筒2638cc80馬力・コルセアDXの二種があった。