人間の闘争心というのは、神から与えられた本性なのだろうか。

 何かが並ぶと、どっちが強い・早い・長い・太い・高いなどと、優劣を付けたがる。

 また単独でも、世界初は俺だ、業界初はわたしだ、と自慢したがる。

 

「自動車はドイツで生まれ・フランスが育てた」と、フランス人は自慢する。世界初をドイツに奪われた悔しさが感じられるが…それはそれとして、そんな自動車で、競争を始めたのも、フランス人だった。

 世界初の乗用車レースは、1894年にパリの新聞プチジャーナルが主催した…エントリーが何と102台だったが、スタートラインに並んだのは、21台だった。

写真:濱田真司がパリから/濱田さんは元トヨタ自動車博物館副館長でパリ出向中に送ってくれた/プチジャーナル紙&記念碑&クローズアップ。

 レースは、蒸気自動車と新鋭内燃機の戦いとなった…パリ~ルーアン間126粁を、12時間以内で走ること、が大会規則だった。

 で、6時間48分後に、ルーアンに一番乗りしたのは、ドディオンブートンで、平均時速18.67km/hだった。

 が、ドディオンは失格し、優勝は二番到着のプジョーとなった…失格理由は、運転手が二人という理由だった。

写真:失格したドディオンブートン1894年&繰り上げ優勝のプジョー。

 ドディオンは蒸気自動車で、主人が乗る優雅なワゴンを曳く蒸気自動車に、運転手とボイラーの釜焚きが二人乗っていたからというのだ。

 何やら、コジツケ気味だが、フランスでは良くある話のようだ…1992年、パリ→モスクワ→北京1万6000キロラリーに出場した三本和彦「砂漠になった朝フランス車が一晩でトレッドが広がりタイヤが太くなっていた」と憤慨する。

 誰かが抗議すると「大会規則が新しくなった」と一蹴されて、終わりだった、と。

 いずれにしても、パリ・ルーアン間自動車レースは、19世紀を主導した蒸気と、新鋭ガソリンとの、動力の世代交代を告げるレースでもあった。

 次のレースは1995年。パリ→ボルドー往復で、距離が一気に伸びて1178粁…出走22台。ガソリン車15台vs蒸気車6台vs電気車1台…既に内燃機関が主役になっていた。

 平均時速24.14粁でゴールに跳び込んのは、パナール・ルバッソールだが、またもや二番ゴールのプジョーが優勝と決まった。

写真:一着のパナールルバッソール&繰り上げ優勝のプジョー・ヴィクトリア/ダイムラー製1282cc3馬力・最高速度18粁・車幅灯ローソク・前照灯アセチレンガス灯。

 失格の理由は、ルバッソールは二座席、プジョーが四座席ということだった…時に、フランという国は、不可思議が通用し、規約もコロコロと変化する国のようである。