自慢じゃないが、私は英語が駄目…戦争中「英語は敵性用語で禁止されていたから」との言い訳を旗印に、頑張ってきた。

 だから外国では、毎度知りあいを探すことに…パリでは、与謝野晶子の孫娘の文子さん。英国では三本和彦の弟の實さん。

 1960年代半ばのローマは、清水さんだった…欧州映画の輸入では戦前からの老舗・東和映画のローマ駐在員だった。

 ローマに赴任したばかりの清水さんは、ランチャを買ったばかりだった。

写真:アッピアとオーレリア

 昭和30年頃、ランチャの輸入代理店は、赤坂溜池の国際自動車だった…当時の日本は大型車一辺倒で、少数の英車を除き、仏・独・伊、どれもマイナーな存在だった。

 で、ランチャは小型のアッピア、中型のオーレリア、共に日本の路上で出合うことはまずなかった。

 SCCJ=日本スポーツカークラブ・1963年の名簿では、服部歊がランチャ・アッピアのオーナー…彼は、セイコーの一族だと聞いた。

 アッピアの大きな特徴は、初代クラウンのように観音開きドアだが、Bピラーが無いから、四枚開けはなすと、右から左え風が吹き抜けていった。

 全長4240㎜。38馬力のOHV・1090ccは、コンパクトなV型四気筒…アルミ製ボディーの815kgという軽量さで、走れば、かなりスポーティーだった。

写真:話とは無関係だがピニンファリナのランチャスパイダー&愛好家のオーレリア。

 清水さんとの話の中で、ランチャの話になると「昨日買ったので今日は整備中・明日は乗ってきます、と…翌日やってきた車は、見事なボロ車だった。

 彼の運転ではギクシャクだったが、私が運転するとスムーズになった…古い車を上手に走らせるのは、修理業者の特技なのである。

 で、バチカンやコロッセオなど名所旧跡を訪ね、車名の由来である、有名なアッピア街道にも行った…Via Appia=ローマから南へ540粁の道路は、BC312年に完成した道路だった。

 当時のアッピア街道を、ローマ軍団の将軍が、馬が曳く戦車で走りながら、まさか2000年後に、アッピアなんて名前の自動車が走るなんて、考えてもみなかっただろう。

写真:アッピア街道の標識と道路。

 明日帰るというと「飛行場まで送ります」と来てくれ、最後のアッピアを楽しめる、と喜んだのも束の間だった。

 もう少しで市街地からでるというところで、やおら動かなくなった…ギアが入るのに車は動かなに。

 幸い流しのタクシーが拾えたので、ぶじ空港までタドリ着けた…しばらくしてローマから便りが届いた。クラッチが粉々に欠けていたのだそうだ。それからも、故障続出だったと言っていた。