中村育民は、日本スポーツカークラブの古いメンバーだった…職業は、日本橋本町の医者である。

写真:右から二人目中村育民・次が四六/SCCJラリーのゴール軽井沢で。

 MGAのオーナーというのは、趣味だから問題ないが、患者が気の毒だった…先生がガレージにいるときは、観念して待合室で待つという、良き?シツケをされていた。

 ある日、私が訪ねると、聴診器を耳に、むずかしい顔で、ボンネットに首を突っ込んでいた。

「先生何してんの・待合室は患者でイッパイですよ」

「キャブレターのバランスを取ってるんです」

 MGAは、SUキャブ二連装で、アイドル、中回転、髙回転で、二個どうしのバランスを取る作業は、プロでも面倒な作業だった。

「キャブを流れる空気の音を聞いて合わせるんです」ということだった。

 先生のMGAは、赤だった…当時赤色は、消防車専用だから、乗用車じゃ車検が通らなかった。

 で、かしこい?業者が、溶剤がシンナーでないペイントを吹きつけて、車検が終わったら洗い落とせば元の赤、という手段を考えた。

 私の工場では、先生のMGAのボンネット中央に30cmほどの白線を入れて、車検合格…が、先生は、その後も、そのまま乗っていた。

 

 さて、MGが日本で有名になったのは、進駐軍兵士のMG-TDからだった…その前にTCが少し来てから、TDが大量にやって来たのだ。

写真:MG-TC/トヨタ博物館蔵&MG-TD/幕張オークション会場で。

 ちなみにMGの創業は1924年で、モーリスガレージを名乗ったが、1928年に、その頭文字でMGを名乗るようになったのだ。

 そして1929年に登場したのが、MGミゼットで、それが進化してTAが誕生した…で、これが世界に羽ばたくTシリーズの元祖となった。

 進駐軍のTDがたくさん出回るようになると、裕福な日本人も乗るようになり、三船敏郎や三国蓮太郎、草笛光子らが走る姿を、うらやましく眺めたものだった。

 TDは、1953年にTFえと進化するが、これがクラシックな姿の最後で、次に登場したのが、MGAだった。

写真:MG-TF/ラジェーターグリルがスラントしている。

 MGAは、直四OHV・1489cc・SU二連装で72馬力…Tシリーズは幌ばかりだったが、MGAでは、ハードトップも登場した…アメリカ市場を考慮したものだろう。

 Tシリーズの、C・D・FとMGA、全部乗ったが、どれも乗り心地が悪く、装備も最低、いわばスポーツカーと呼ぶ、走る道具だった。

 が、そんな車が大好きなのが英国人…ラグビーのボールでも判るように、彼らは、一種のヘソ曲がり人種のようだ。

 寒風の中、革ジャンの襟を立て、少々の雨ではビクともせず、ハタから見ればヤセ我慢をしながら、自然と一体になろう、というのだ。

 それが、ジョンブル的スポーツカーの解釈なのだろう…最近は変わってきたようだが。

 さて、MGAを乗りまわす中村先生、日本橋本町から田園調布に医院とともに移し引っ越した。

 それから数年。日本橋高島屋の前で信号待ちしをていると、隣に見なれたMGAが駐まった。

「先生ひさしぶり・診察サボって日本橋?」

「私はバカでした・田園調布には日本橋の患者が来てくれないので往診なんです」…昭和30年代終わりの頃だった。