20世紀末、韓国の自動車業界は荒れていた。

 まず、倒産寸前の起亜自動車の入札に、GMなどの外国勢に加えて、現代、大宇、三星などが、入札に応募していた。

 そんな韓国ではトップの現代も、自主退職に加えて、大量解雇で労働争議中だった。

 いずれにしても、大量在庫を抱えて、各社四苦八苦の中で、産声をあげたばかりの三星自動車だけが元気だった。

 三星自動車が、名乗りを上げたのは1994年で、母体はサムスン財閥…そして、開発を終えた1998年に三星は、韓国ぼの発音通りのサムスンを、正式社名とした。

写真:サムスンの車を飾るはずだったマスコット。

 で、開発したのが、サムスンSM5だった。

 自動車メーカーを目指したサムスンは、短期開発と、技術習得のために、日産と提携した。

 日産は、セフィーロの技術と共に、金型や治工具,工作機械など一式を提供した。

 李健煕=イゴンヒ会長と親しかった、三本和彦は「ありゃひで~よ」と…寿命間近な日産セフィーロと、古い工作機械で、○千億円も、というのだ。

 三本さんは、相談されたときに、初めスバルを丸ごと買収したら、と勧めたそうだが、何故か日産になった、とも言っていた。

 話は飛ぶが、後日、日産がルノーの子分になったときに「エッたった5000億円で・ウチでも出せたのに」と、サムスン重役が言っていた。

 韓国では後発自動車メーカーなので、大統領からの許可条件は、釜山を埋め立てて工業団地をつくり、その一角に自動車工場を造っても良しだったと聞く。

写真:広大な埋め立て地と本土を繋ぐ大橋&サムスの自動車工場/共に建設中。

 やがて工場完成…さあやるぞ、と稼働を始める頃、見学に行った…立派な工場で、車完成が楽しみと思っていたら、サムスンを悲劇が襲った。

 大統領の交代が悲劇の始まりだった…新大統領はサムスンに冷たかった。自動車工場を大宇に、大宇の半導体工場を引き取れ、というのだ。

 たぶん経営が苦しくなった大宇の、大統領への働きかけがあったのだろう。

 サムスンは、半導体工場を引き取ったが、経営不振の大宇は自動車工場を引き取らない…工場は放置すると使えなくなる。で、たまに稼働すると経費がかかる、とこぼしていた。

 そんな命令が出る前、希望に燃えていた頃のサムスンが、完成した車を東京支店の社用車として持ち込んだので、試乗の機会を得た。

写真:サムスン525V&日産セフィーロ。

 セフィーロベースの、サムスンSM5には、520と525Vがあり、よく出来た車だった…520は、直四DOHC・2ℓ。525Vは、V6・DOHC・2.5ℓで、両車、右側通行の韓国製らしく、左ハンドルだった。

写真:サムスン525V/左ハンドル&セフィーロのコクピット。

写真:525VのV6エンジン&セフィーロのエンジン。

 ベースになったのは、二代目の日産セフィーロで、1994年から2000年迄造られたが、1998年に完成したSM5は、エキステリア、特にインテリアの仕上がりは、セフィーロを上回っていた。

 もし、という言葉は使ってはいけないかもしれないが、もし大統領命令がなかったら、韓国自動車メーカーのトップは、サムスンになっていたかもしれない。

 大宇が引き取らない工場は、やがて日産がルノーの子分になると、ルノーコリア自動車になった。

 もう大丈夫と思ったら、ルノーは工場を引き取らず、サムスン管理の下、組み立て工場として、下請けに使われただけと聞いている。

「気の毒だね~」と、三本和彦が言った。