日本橋茅場町の修理工場カブトオートセンターに、テアトル銀座の役員車が来ていた…運転手が「社長夫人の車を・・」というので、吉岡定美社長と面談した。
当時は外車が輸入禁止で、全て中古車の時代…やはり売りたいという顧客から、程度の良いモーリスマイナーを見つけて一件落着…以後、麻布の屋敷に出入りするようになった。
写真:モーリス・マイナー/九州自動車博物館で。
ある日「社長が呼んでいる・イタリー亭に行ってくれ」というので、行くと友人だと紹介されたのが、吉田清重・店主だった。
品川駅前、高台の吉田邸にも二度ほど行った…「ローマの裏町の目立たないが評判のいいイタリー料理店を・・」と、開店したのが、昭和28年=1953年だったそうだ。
写真:イタリー亭と地下への入り口
店は、銀座通りから西側一本裏の一丁目にある…並びには、たぶん東京初の高級韓国料理店だった清香園があり、よく通ったところだ。
イタリー亭は、一階と地下があり、地下の方が、どちらかというと、ローマの雰囲気が味わえる。
といって、高級店らしく入りづらいという雰囲気ではない…メニューのアラカルトには、1000円台も多く、気軽に入れる店だと思う。
1000数百円のランチで、ローマの気分が味わえるなら、こんな嬉しいことはない。
昨年、食べたランチのカルボーナーラは、1500円で、サラダだがつき、紅茶を飲んだから、サラリーマンにも安心な店だと思う。
吉田さんは、もうとっくに亡くなって、現在は、折田浩という、イタリアンのオーナーシェフの経営だそうだ。
いまのシェフは、イタリアで修行し、日本でも、ホテルや一流レストランで、腕を振るったと聞く。
その経歴の中に、八重洲ブリジストンビル地下のアラスカというのがあった…アラスカは、昭和30年代、父の会社が接待に使っていたので、良く知っている。
アラスカの隣に、金沢という、名人と呼ばれた床屋があって、長男が慶大航空部の二年年上の先輩だった。
客筋は蒼々たる人物ばかりで、鳩山一郎揮毫の{天下第一人}の額。緒方竹虎、近隣大企業の社長役員などなど…笹川良一を紹介されたことがあった「君ら若者が羨ましい・年は戻せないから・・」と言って名刺をくれた…新聞や雑紙で見ると鋭い目をしているが、私には笑顔で優しい目の、お爺さんだった。
金沢先輩の釣り仲間が、隣のアラスカのシェフ・諏訪さんだった。
戦時中、諏訪さんは駆逐艦の司厨兵だったという…終戦で母港へ帰還中、艦長に「魚をタラフク食べて貰いたいと」許可を取り、残りの爆雷を一発投下した。
船をとめて、10分ほど待っていると、あたり一面、気絶した魚が浮いてきたので、それを料理したら、全艦大喜びだったと、江の島沖に、ボラを釣りにいったときに話していた。
一期一会というが、世の中いろんな縁で繋がっていくものである。