私は20世紀中は、パイロットだった…といっても自慢するつもりはない。

 が、今回はそんな縁で知った話をしようと思う。

 日米の飛行機仲間に流れる、嫌な噂があった。私もそれを信じ、憤慨していた。

 話題の主人公は、陸軍四式戦闘機=通称ハヤテ=疾風で、1944年フィリピンで,米軍に捕獲された機体だった。

 疾風は大東亜戦争決戦機と呼び、陸軍が世界最速戦闘機をと発注し、完成すると、時速624粁を記録して、正式採用された期待の戦闘機だった。

 捕獲された疾風は、米国で整備されて、飛行すると、時速689粁をマークして、米空軍関係者を驚かせた。

 模擬空戦では、WWⅡ中の世界最優秀戦闘機が疾風には勝てなく、速度では追いつくことができなかったそうだ。

 が、米軍の整備は、簡単だった…スパークプラグと高圧配線コードを米国製と交換、上質なエンジンオイル、米軍の100/140オクタン燃料を入れただけ。

 日本の飛行試験で624粁、米国では689粁…この差は、単純に上記の差だけだったのだ。

 疾風のエンジン{誉}2000馬力を開発した、プリンス自動車を創業した、中島飛行機の中川良一は、陸軍の発注仕様書では「燃料は100オクタン・オイルは上質な米国製の備蓄品」といわれて造ったら「ガソリンは80もなく松根油でしょう・狙った性能など出やしませんヨ」と言っていた。

 その疾風は、米軍の調査が済むと、放置されていた…それを、エド・マロニーが、LAの東30粁ほどのチノ空港にある、プレーンズofフェーム航空博物館でレストアして、飛行可能になった。

 日本ではレストアというと姿だけだが、米国では、ワシントンのポールEガーバー施設などと共に、飛行可能にまで復元するのが常識なのだ。

写真:チノの博物館で復元中のゼロ戦と米国初ジェット戦闘機ベルYP-59エアラコメットも復元中だった。

 飛行可能になった疾風は、1973年に日本に里帰り…入間の飛行場で公開デモフライトしたから、記憶に残る人も居るだろう。

 デモが終わると、米国に返すより、日本に置くべきだという、人物が現れた…疾風を買い取ったのは、山手不動産の後関盛直社長だった。

 後関さんは、元海軍航空兵で、零式観測機=通称ゼロ観の操縦士だった…戦後も単発自家用機では高級な、ビーチクラフト・ボナンザのオーナーで、那覇から札幌までの長距離飛行記録をもち、私の飛行機仲間でもあった。

 大島で、私のムーニーの無線機が故障した時には、後関さんがボナンザで、大島から調布空港まで誘導してくれて、編隊飛行で無事帰れたこともあった。

 あるとき後関さんに「疾風は高かったでしょう」と聞いたら「3500万円・格安でした」…WWⅡ中に海軍のパイロットだったということから、マロニーも飛行機仲間意識で、格安譲渡が実現したのだろう。

 我々の常識では、安くても1億円と思っていた…が、彼は飛べる疾風を買ったのに、飛ばすことはなかった。

 宇都宮飛行場の富士重工業格納庫に眠らせたままだった…何故?と聞くと「文化遺産を日本に、と買ったもので飛ぶつもりはない」が答えだった。

 富士重工業のルーツは中島飛行…疾風の故郷だから、疾風も喜んでいるのではと言っていた。

 さて、問題の悪評と原因については、明後日に。