貴方が、野中重雄を知っているなら、かなりな年令で映画ツーのはずだ。
野中さんに会ったのは1957年頃だった。
東銀座八丁目、昭和通りに面した三井ガーデンホテル銀座=昔は銀座第一ホテル=さらに遡ると三井銀行木挽町支店…今は、三井ナントカという大きなビルになっているが。
昭和30年代、その三井銀行の裏通り、MK自動車修理工場の番頭格・宮崎良樹が、日本グライダークラブの先輩なので、マイカーの修理は、何時もそこだった。
そこで宮崎さん=宮チャンから、紹介されたのが野中さん…1953年型ボクスホール・ベロックスに乗っていた。
写真:ボクスホール・ベロックス:全長1832x全幅1705㎜・車重1389kg・直四OHV・1507cc・43.6馬力・前Wウイッシュボーン/後リーフリジッド/NZワナカで。
話してみると慶応の先輩で、支那(中国)戦線から帰還した、元大日本帝国陸軍の騎兵大尉だった…ちなみに、当時馬がいる部隊は輜重隊で、騎兵隊には馬がなく、重機関銃隊だったそうだ。
先輩は、大学を卒業すると日本郵船に就職するも、一銭五厘葉書の召集令状で騎兵隊に…帰国後は、得意の英語で、ニュース映画の仕事についた。
当時の映画は、日本では最大娯楽の全盛時代…予告編前の米国製ニュースが人気で、その翻訳とナレーションを、映画俳優・竹脇無我の父・竹脇昌作とをやっていた。
「竹脇は神経繊細・ふざけて脅かすと30分くらい声が震えてナレーションができないんだ」と笑っていた。
当時の映画館はいつも満員。満席だと、客は通路に座り、通路の両脇から後方までの立ち見…冷房がない夏の観客は全員汗だくで、すし詰めの観劇だった…マ夏の冷房なしで満員の映画館って、想像が付きますか。
宮チャンに紹介された頃は、映配の宣伝部長だった…外国映画を輸入する映配は、銀座松坂屋のそばだった。
先輩は大阪育ちなのに、江戸っ子のような口調で「くそったれ・年中壊れてやがる・丈夫で格好いい奴ないかね」というので、赤坂のブローカーを紹介した。
当時の日本は貧乏で、外車は輸入禁止の時代だから、買えるのは、すべて中古車ばかりだった。
「おかげさんで良いのが見つかった」と・自慢げに乗ってきたのが、ローバー75だった。
ボクスホールは英国製だが、GMの子会社。が、ローバーは生粋の英国製で、ミニロールスロイスと呼ばれるほど、高品質を誇っていた。
写真:ローバー75ー1952年/全長4580x全幅1670㎜・WB2820㎜・車重1447kg・直六・Fヘッド・2103cc・45馬力・頑丈な格子型フレーム・前Wウイッシュボーン/後リーフリジッド/日本自動車博物館蔵。
Fヘッド=吸気側OHV、排気側SV=サイドバルブという機構。ロールスロイスも使っていた。
当時、世界に知られた日本の悪路では、キャデラックでもボディーが捻れるのに、ローバーはビクともしなかった。
頑丈に造れば重くなると心配したら、ドアやボンネット、トランクの蓋がアルミという、贅沢な工作だった。
シートやドア、内装はボディーと調和が取れた緑の本革仕上げ。犬のマークの英国製ラジオ(ビクター)が羨ましく、走れば重厚感ある乗り味が、今でも忘れられない。
面白い仕掛けがフリーホイール装置…走行中アクセルを離すとクラッチが切れる。で、クラッチ踏まずに変速ができるのだ。
馴れると便利なもので、その間は惰力で走るから燃費も稼ぐ…エンブレが効かない坂では、ブレーキが焼けるのが心配だが、心配無用…それ用のノブをひけば、クラッチがロックされて、普通の車になるのだ。
オーバードライブ付だと、アクセルを床まで踏み込むと、ペダルの下のスイッチが入り、ODが外れて、急加速を始めるという仕掛けになっていた。
ローバー75は、旧態依然とした車なのに、そこら中が先進斬新という、面白い車だった。
野中重雄の続きは、明後日に。