世界初ハイブリッド=HVのプリウスが登場した頃、欧米特に欧州では、環境エコ車の最終目標は電気自動車=EV、燃料電池車=FCVだったから、あまり気にもしなかったようだ。

 日本人が開発したHVカーなど、脱炭素では過度的システムと位置づけていたようだ。

 もっとも白人至上の彼らは、有色人種の技術を、内心認めたがらないという、悪いクセもあるようだが。

 が、日本にHVが続々誕生・普及し、余勢を駆って矛先が海外に向かうと、商売上「こいつはまずい」ということになるのも当然の現象だった。

 でもHVは、既に日本勢の特許でがんじがらめ…有色人種の技術は買いたくないはず。

 で、HVを名乗れる、簡易的技術で時間稼ぎの間に、EVの開発に専念という作戦を考えたようだ。

 加えて、FCVでもトヨタのミライ登場で、先を越される。

 が、時間稼ぎは成功したようだ…それに自動車開発では後発の中国勢が便乗して、EV時代の幕が開いた。

 素直に負けを認めず、辛抱しながら将来を見据えてジッと待つ、この体質は、我々も学ぶ必要がありそうだ。

 さて、HV一番乗りの、プリウスの開発は、和田明宏副社長(後にアイシン精機会長)の指揮で、内山田竹志(後にトヨタ会長)が主導した。

 当初の開発目標は、直噴D4型エンジンの改良で、50%燃費向上だったが、和田さんが「50%では駄目だ」と難題を出したので、それは無理だと結論したと聞く。

写真:初代・長野試乗会/2年後の改良型・小淵沢試乗会

 で、浮かび上がったのが、他の部門で研究中のハイブリッド…が、海の物とも山の物ともつかぬHB開発は、難関だらけだった。

 それを乗りこえ、乗りこえ、最後の難関がニッケル水素電池だったという…がそれも乗り越えて、1995年にプロトタイプを発表、1997年に発売に漕ぎつけた。

写真:コンパクト化に成功したニッケル水素電池。

 

 そして、翌1998年の発売予定を、和田さんが「主導権を握るのにはそれでは遅い」のハッパで、繰り上げたと聞く。

 目論見通り、プリウスに引っ張られて、各社のHVが出揃い、海外にも進出すると、無関心をよそおう外国勢もユーザーニーズには勝てずに、簡易型HVを開発して、御茶を濁すようになった。

 1998年のウオーターゲートホテル…朝食後のロビーで、久保地理介にぱったり(後年トヨタ車体会長)。

「大臣が運転したいというのでこれから」と久保さんは言った…米国の大臣が興味を持つのだから、米国でも関心が高いことを改めて認識した。

 さて、初代プリウスの試乗は、五輪直前の長野だった。最初の印象は、走りはまあまあだが、後席背中の大きな電池のせいでトランクが小さいこと。後席では電池の冷却ファンが五月蠅かったこと。回生ブレーキのせいで、カックンと止まるブレーキを「何とかしてよ」ということだった。

 が、技術は日進月歩とは良く言ったもので、二年後、改良モデルの小淵沢試乗会では、体積比で40%も小型化された電池で、トランクスルーが可能になり、ブレーキショックも改善されて、加速も向上していた。

 が、そのプリウスが、日本を席巻して、世界にもHV旋風を巻き起こすだろうなどとは、考えもしなかった。