「360ccでスポーツカー?走るわけないヨ」と、車仲間でウワサが立ったのは1960年頃だったと思う…二輪で世界チャンピオンになったホンダが、いよいよ四輪市場への進出を計画していた。

写真:全日本自動車ショーのホンダ・スポーツS360。

 

 が、ホンダのスポーツS360は販売されなかった…通産省の自動車産業再編計画で、登録車の実績がなければ、以後参入できないとのウワサが立ち、急遽500を販売して、実績作りをするという作戦に変わったからだった。

 で、1963年にホンダS500を45.9万円で発売した。が、販売されなかったがS360は完成していた…1962年建設中の鈴鹿サーキットの全国ホンダ総会で、助手席に中村良夫を乗せて本田宗一郎がデモ走行をしていた…S360とS500を開発した中村良夫は、既に紹介したことがある、太平洋戦争中にタービンロケット=日本初のジェットエンジン開発を成功させた技術屋だった。

 鈴鹿を仲よくデモッている本田と中村だが、実は開発中に何度も喧嘩をしていたようだ…頑固な技術屋同士、喧嘩のタネの一つが後輪駆動部だったようだ。

 本田は自信のある二輪技術の延長でチェーン駆動を vs 中村はオーソドックスなリジッドアクスルをが喧嘩の原因だが、社長 vs 社員­、結果は社長の勝となった。

写真:車台に固定されてたシャフト(左)からチェーンで後輪を駆動する。

 

 で、S500は後継S600と共に、急発進するとピョコンとケツを跳ねあげる妙な癖が生まれた…普通ならケツは下がるものなのだが。

 が、後年レースで勝つためのパワーアップで、S800になったときに、リジッドアクスルに変更されて、軍配は中村の手に渡った。

写真:アルミスポーク+ウッドグリップは当時憧れのナルディー風ステアリングだった。

 

 さて売りだしたS500は、パワー不足との評判で、1964年にS600/50.9万円に進化する。

 日本初見参のDOHCは、606ccになり57馬力…当時驚異的な8500回転という髙回転は、マサに世界制覇の二輪技術だった。

写真:四連装キャブの日本初DOHCは芸術作品だと思った。 

 

 京浜製作所製キャブレター四連装の姿は、精密機械そのもので、車マニアには見ているだけで幸せになった…そしてピョコンとケツを上げて加速を始めれば、最高速度が145粁…これ軽自動車!?という感激だった。

 早速、買いこんだら、ホンダ研究所が、チューニングしてくれるというのでお願いしたら、最高速度が150粁を越えるようになった。

 で、1964年7月、前年ヒーレイ100で、クラス優勝した伊豆長岡のSCCJヒルクライムに出かけた。結果、GT-Gクラスで優勝したが、それはJAF公認第一回クラブマン・ヒルクライムレースだった。

写真:GT-Gクラスで優勝トロフィーを受ける筆者。

  

 当日レースには、後日日本グランプリ出場の、生沢徹、横山精一郎、中村正三郎、鈴木誠一、大坪嘉夫、津々見友彦、佃公彦、永井賢一、小関典幸なども走っていた。

 ちなみにS600は、全長3300x全幅1400x全高1200㎜・ホイールベース2000㎜、車重695kg、世界一ちいさな高性能スポーツカーだった。

写真:ヨーロッパの自動車ショー展示のS800クーペ。

 

 そして1970年、ホンダ・S600は、スポーツ800=S800に進化して70馬力、最高速度も160粁に跳ねあがり、輸出されて海外でも活躍した…ちなみに、基本はロードスターだが、S600とS800に屋根付きのクーペが追加されている。

 レース場でのライバルは、トヨタスポーツS800だった。