集会が終わったある日、「じはつほうしのとりきめ」と書かれた用紙が子供たちに配られました。

 

70年代の王国会館に溢れていた子供たちのエネルギーを有効活用するために簡単な掃除やゴミ拾いをさせる取り決めで、私は下駄箱の前に敷かれたビニールシートを雑巾がけする係になりました。

 

王国会館は雑居ビルの2階にあり、薄暗い廊下の突き当りにあるオバケが出そうなトイレで冷たい水をバケツに汲み、ボロボロの古雑巾でシートを拭くのです。

バケツの水はすぐに真っ黒になりました。

 

私はつまらない集会中や単調な作業をこなす時、いつも空想の世界で遊ぶ子供だったので、この水拭き清掃は格好のネタになりました。

 

私は囚われの姫。毎日奴隷のように働かされるの。

今日もバケツの氷を割って、冷たい水で床を拭くわ。

お城の人達はみんな知らん顔で私の横を通り過ぎて行く。

でもきっといつか、魔法使いが現れて私を魔法の国に連れて行ってくれるのよ。。。

 

 

「あらぁ、お掃除してるの?偉いわねぇ~~」

 

 

良く通る大きな声にびっくりして振り向くと、ゴスペルシンガーのようなゴージャスなカーリーヘアーの、お日様のように明るい笑顔の女性が立っていました。

隣にいた姉妹が「研究生のY野さんよ。よろしくね。」と紹介してくれました。

 

Y野さんは初めて訪れる王国会館でも全く物おじせずに、人懐っこく私に話しかけます。

 

「手が真っ赤になってるねぇ。水が冷たいもんね。大丈夫?」

 

掃除中の私に「ご苦労さん」「ありがとね」と声を掛けてくれる人はいましたが、こんな風に親身になってくれる人は初めてだったのでびっくりしました。

 

「この子は○太って言うのよ。」

 

小さな男の子が慌てて彼女のロングスカートの後ろに隠れて、恥ずかしそうにこっちを見ています。

Y野さんはまるで優しい魔法使いのように、暖かい光を全身から放っているように見えました。

 

私はY野さんの事が大好きになりましたが、

割と間もなく彼女は別の街に引っ越してしまいました。

 

何度か大会などで再会する事もありましたが、そのうち巡回区も変わってしまったらしく

そのような機会も無くなりました。

 

 

ある日家族で買い物に出掛けていた時、姉がレコード屋の店頭で見付けたカセットテープを持って来て、

 

「お母さん、このY野A子ってもしかしてY野さんのこと?」

 

と聞きました。

 

「あらほんとだ。これ買ってみようか。」

 

母はト・キ・メ・キというタイトルのアルバムを買ってくれました。

 

家に帰ってカセットデッキのスイッチを入れて皆で耳を澄ませると

美しいピアノのメロディーに続いて、

 

「こどもたちは灯りを作る、私がしゃがんでいる間に

こどもたちは箱を開ける、私が本を読んでいる間に」

 

と彼女の優しい歌声が響きました。

 

歌詞もメロディーも、歌い方も、全てが生まれて初めて聞く種類のものでした。

 

「何これ、変な歌!」

 

と、母は食べ付けない物を口にした時のような微妙な表情で部屋を出て行ってしまいましたが、私と姉はデッキのボリュームを上げてアルバムの世界に浸りました。当時まだ珍しかったシンセサイザーのサウンド、所々に日本の民謡のようなメロディー、そして独特の歌詞。

 

「この冬が来れば私は旅立つ、もっと食べ物のあるとこへ旅立つ」

 

私たちは優しい魔法使いに手を引かれて、胸を躍らせながら魔法の国を散歩している気分でした。

 

別の日に姉が興奮気味に「見てこれ!」と近所の図書館から借りて来たLPが、

「東京は夜の7時」 と 「ごはんができたよ」 でした。

 

この二つのアルバムも私たちのお気に入りとなり、姉が返却した日に私が借りて、というのを交互に繰り返していたので他の人が借りる機会はまず無かったはずです。

 

「東京は・・・」のアルバムジャケットは息子の〇太君の写真、

そして一曲目のイントロにはJWの賛美の歌が使われていました。

 

「あ、これ『神はアイヨー』のメロディだぁ」と私たちは面白がりました。

 

「東京は夜の7時

リオデジャネイロは朝の7時

アンカレッジはゆうべの12時

カイロは昼の12時

 

聞こえるよ、見えるよ・・・

行ったこと無いとこだけど

手を伸ばしてごらん

・・・届いた」

 

この時は初めての親友と呼べるクラスメートのM子が転勤でリオに引っ越したばかりでした。

手紙以外の連絡手段が無かったため、私たちは気が遠くなるようなゆっくりペースで文通を続けていました。

話したい事、聞きたい事が山のようにあるのに、それをいちいち手紙に書くのは大変な作業でした。

ポストに手紙を投函した後、私はしばらくポストに手を当てて立ち尽くしていたものです。

 

今ここに入っている手紙は、今日どこに行くんだろう?明日はどこに行くんだろう?

いつ飛行機に乗るのかな?どこで乗り換えるのかな?

何月何日にM子の家に届くのかな?M子は手紙を読んで何て思うのかな?

いつ返事を書くのかな?いつポストに入れるのかな?

いつになったら返事を受け取れるのかな?

 

ああそうか、私の手紙はまだこのポストの中なんだ。。。

 

そんな日々の中で聴いた「東京は夜の7時」は私にとって特別な一曲になりました。

ちなみにM子は、今も連絡を取り合っている私の大切な親友です。

 

十代になって渋谷にある動物の専門学校に通っていた時、渋谷ジァン・ジァンという小劇場でY野さんのライブがある事を知りました。もう何年も会っていませんし、そもそもライブ自体が初めての体験でした。

 

早めに行って、ドキドキで列に並びました。

小さな劇場はあっという間に一杯になりましたが、「関係者用」と書かれたパイプ椅子が最後の最後まで空いていたのでササっとそこに座ってしまいました。

 

ぽつんと置かれたグランドピアノにスポットライトが落とされ、Y野さんのライブが始まりました。

 

ちょうどS本R一氏の「音楽図鑑」がリリースされる時期と重なっていたため、途中から登場した教授に会場が沸きました。二人で仲良くピアノに向かって連弾で披露した「森の人」という曲が忘れられません。

 

「闇に座るオランウータン

目に見えぬものを抱いて

 

水を裂く ザトウクジラ
誘い出す コバルトの歌

 

・・・ 僕たちは見てきた
確かに この目で見てきた ・・・」

 

ライブが終わって、ふとY野さんに挨拶できるかなと思いつき、

受付で事情を話したらあっさり楽屋に通してくれました。

 

「あらぁ、〇〇姉妹のお嬢ちゃんでしょ?大きくなったわねぇ~~」

 

と、相変わらず良く通る声で再会を喜んでくれました。

 

「こういう時は連絡くれれば座席を用意しておくからね。」

と言ってもらえましたが、さすがに他のファンに申し訳なくてそれはできないなと思いました。

 

Y野さんがJWであることは広く知られていましたが、バプテスマを受けた姉妹がアーチストとして活躍していること、JWとは対極の生き方をしている国内外の著名人と親しくしていることに眉をひそめる人は多かった印象です。自由奔放な性格や個性的すぎる作品も関係していたのかもしれません。

 

CDの時代に入ると、今度は高校生になった妹がY野さんのCDを集め出しました。

 

多分これからもずっと私たち三姉妹はY野さんを人として大好きだし、

彼女の作品を愛し続けると思います。