もうかれこれ20年近く前のこと、夫と一緒に夏のオーストリア・アルプスに遊びに行った事があります。二人とも30代でした。
本格登山では無く、レンタカーでドライブしたりケーブルカーで頂上を目指したり、とにかく四方を山に囲まれているので毎日のように簡単な山歩きと爽やかな高原の夏を楽しんでいました。
たまたま泊まった宿の近くにフィルスアルプゼーという湖がある事を知り、翌日行ってみることにしました。環境保全のために車は午前中と夕方のわずかな時間帯にしか湖へ至る道路を通れないので空気がとっても綺麗です。
駐車場を出ると湖畔のビアガーデンではフォルクスミュージックの生演奏が陽気に鳴り響いており、
晴れた空!
美しい湖!
そびえたつ山!
文句なしのハイキング日和でした。
(注)写真はすべてイメージです
看板を見るといろいろなハイキングルートが紹介されていましたが、我々は難易度も程よい半日コースを選んでいざ出発!
まずは木々が生い茂る急な登山道をぐんぐん登って行きます。急勾配ではありますが、ずっと木陰になっているので冷たい空気がとても気持ち良い山道です。やがて背の高い木が少しずつ減って行き低木だけになる頃、道はさらに急になって時には岩場に固定された鉄のはしごで登って行きます。
そろそろ一休み・・・の気分になった頃ようやく視界が開け、山上にもう一つの湖が現れました。
牛たちが放牧されていて、ガランガランと賑やかなカウベルが響いています。
牛小屋兼休憩所まであり、メニューに新鮮なミルクがあったので、迷わず注文。
湖の周りでのんびりと草を食む牛たちを眺めながら、ビールジョッキに並々と注がれたこっくりと甘いミルクを飲む、至福の時間。
すっかり元気を取り戻して、さらに上に進みます。
しばらく登って行くと、広い台地に出ました。そこにも湖があり、マスのような魚が沢山泳いでいます。宿泊できる山小屋もあり、本格的な登山をする人のための拠点となっているようです。
我々の半日コースはここから一番近いピークの十字架までですが、プロの装備で身を固めた人たちは反対側のもっと険しい山脈に向かって進んで行くのが見えます。
先ほど充分休んだので、我々も休憩なしでそのまま進みます。
ブルーベリーの茂みが続く道をしばらく上るとやがて低木さえも無くなり、丈の短い草だけになりました。どんどん標高が高くなっていきます。
なだらかな斜面をのんびり歩き、はるか下の方にはフィルスアルプゼーと、ミルクを飲んだ牛小屋の湖、そしてマスが泳いでいた湖が見えています。いつの間にか随分高い所まで登ったようです。
やがて、ゴールの十字架山のふもとにたどり着きました。あともう一息。
標高は割とあるはずですが、ここにも牛たちが放牧されていました。
ここはもう牧草が生えているぎりぎり限界の高さです。大中小の天然岩がゴロゴロと一ヶ所に集まっていて、その岩場を囲むように牛たちが群れています。
観光客からおやつをもらったりするらしく、大変に人懐っこい牛たち。柵などは無く、ぐいぐいと擦り寄って来る大きな牛たちに圧倒されながらも、写真を撮ったりして楽しいひと時を過ごしました。
さあもう一息、という感じで我々も十字架山に登り始めます。岩と、砂利で出来た禿山です。頂上は近そうに見えてなかなか遠い。息を切らしながらついにピークに到着しました。
頂上は少し平らになっており、大パノラマの景色が素晴らしい。先ほどの3つの湖が段々と階段状に連なっているのが見えて、その後ろはどこまでも続く山脈です。皆双眼鏡を取り出して飽きずに景色を楽しんでいます。
そうだ、双眼鏡、持って来たっけ。
リュックを探っている時にそれは唐突にやって来ました。
ぐ・ぐぐぐぐ・・・。
何?地鳴り?
いや、違う。
私の腹だーっ!!!
どうしよう?ちょっと待ってよ、さっきのミルク?
まずい、まずい、まずいよ~。
うぅっ、また来たぁーっ!!
夫も私の異変に気付いたようだ。
「ちょっ…大丈夫?!」
「夫くん、どうしよう?まじでやばいよ。こんな所で大恥かくの、嫌だよう。」
「分かった、とにかく下に下りよう。さっきの牛たちがいる岩場まで我慢できる?」
「わかんない。わかんないけど、とにかくやってみる!」
一歩歩き出す。
ぐぐぐ~っ。
ふう。
立ち止まる。やり過ごす。
冷や汗が吹き出る。
これは・・・私自身の戦い。
人間としての、
尊厳を守るための、
孤独な・・たたか・・・い。
登山道の途中で青ざめて立ち止まる私を観光客は高所恐怖症か何かと勘違いして、大げさに道を譲ってくれる。
「お先にどうぞ~♪」
と明るく声を掛けてくれるのだが、こちらとしては
「いいからあっち行ってー!!」
と心で叫びながらも、小刻みに頭を横に振るばかり。
「しっかり足元を見ていれば大丈夫だから、ね。」
ぽんと肩を叩いて行く。
触んじゃねぇ~っ!!!
ダメ。もう限界。
諦めかけたその時、奇跡が起きた。
すすす~っと今までに無く安定した状態で「波」が引いて行ったのだ。
牛の岩まではあと数百メートルほど。
幸い観光客も誰もいない。
よし!行ける!
そう確信した私は絶妙な力加減で腹を「止め」、膝から下だけをちょこまか動かすマリオネットのような走りで岩場へと急いだ。
「夫くん、誰かが通りかかったら適当に話しかけて止めておいてよ~!」
「よしきた~っ!」
大急ぎで牛たちを押しのけるように、ひときわ大きな岩石の後ろ側に回り込む。
ちらと十字架山に目を向けると、双眼鏡を構えた人々が視界に入ったが、
大丈夫、しゃがめば死角だ。
て言うか、
もう
そんな事
知るかぁーっ!!!
「・・・・」
「・・・・」
空が・・・青い・・・。
小鳥が鳴いている・・・。
ここは・・・
天国・・・?
ほら、天使たち(もしくは牛たち)も、
優しい瞳で私を見守っている・・・。
神様、ありがとう。
夫くんも、ありがとう。
牛たちも、観光客も、
みんなみんな大好き。
今、私は自分を苦しめる
あらゆる恐れや汚れから開放されて、
新しく生まれ変わったのです。
山を降りると、午後の日差しで温まったフィルスアルプゼーに登山客が次々と裸ん坊で飛び込んで汗を流していました。私も皆にならってケガレたパンツを脱ぎ捨てて、生まれたままの姿で清い水に飛び込みました。
アルプスの湖で天国を見たときのお話。
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南仏でのバカンスの話はこちら↓