(劇評・12/5更新)「変えていくものと、変えてはいけないもの」大場さやか | かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

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この文章は、2018年11月24日(土)19:00開演の劇団羅針盤『空ニ浮カブ星ノ名ハ三日月』についての劇評です。

 刑務所から出所した一松(平田知大)は、彼を待っていた弟分の三郎(能沢秀矢)に連れられて、ヤクザ、五条組の事務所に戻る。しかしそこはオカマバーとなっていた。組の跡取りである五条透子(矢澤あずな)は一松に、普通の生活を探せと言う。しかし一松は透子を放ってはおけない。そこに刑事の二階堂玲子(山本里央)や自称マフィアの権堂組が絡み合い、透子が置かれている状況がわかっていく。物語の鍵になるのは「赤いシャブ」と呼ばれる覚醒剤の一種。それは、透子の母を苦しめていた物でもあった。

 劇団羅針盤『空ニ浮カブ星ノ名ハ三日月』(作・演出:平田知大)は、任侠の世界をスピード感あふれるアクションで描いた芝居だった。しかし、あらすじを掴むことが大変な芝居だった。その理由としては大きく三つある。まず、4人の俳優で20人以上を演じていること。とにかく、せりふや動きのテンポが速いこと。さらに、シーンが次々移り変わり、時系列も前後することが挙げられる。
 このようなハイスピード舞台は、劇団羅針盤の定番であり、特徴ではあるが弱点でもある。たった4人で何役をも表現しながら、高速で舞台を展開させ、途中に殺陣もある。それをやり遂げる役者陣の体力に感心する。演じる側にかなりの負荷がかかっていることは明らかであるが、観る側にも、物語を追い掛けようとすると相当な負担が掛かってしまうのだ。

 劇団羅針盤は、子ども向けの芝居の上演も行っている。その公演では、小さな子ども達にも理解できるような、わかりやすい表現がなされていた。つまりは、速度を緩めて観客の理解を得やすくすることも、彼らにはできるのである。その上で、この速度と情報量の表現をあえて選ぶのはなぜか。この形で表現することが物語にふさわしいと考えられているからではないか。何がなんだかわからないくらいに錯綜し迷走し絡み合う情報の中、たったひとつ描きたいものだけを、とびきり輝かせてみせたいのではないか。

 透子の母は赤いシャブに依存し、薬の作用で殺人を犯すようになり、透子を殺そうとした。透子を守るため、一松は透子の母を殺した。自分を殺してくれと、敬愛する姐さんが願ったことである。透子の母の思いを叶えようした情と、残された透子を守りたいと思う情。母と娘、二代にわたる女性への思慕。自分を置いてくれた組への義理人情。世間からはみ出しても己の世界で生き抜こうとする姿、古くさいと言われてしまいそうな、真っ直ぐ過ぎる思い。それが、描きたかったテーマであろう。これを伝えたいという心意気は伝わる。殺陣を使った見せ場を盛り上げたいという勢いも感じる。

 それだけに、惜しい気持ちになるのだ。少しだけ、今、劇団羅針盤が使っている「型」を疑ってみてもいいのではないだろうか。外側の型に変化があったとして、変えてはいけない内なる思いは、そう簡単には揺るがないのではないか。


(以下は更新前の文章です)


 刑務所から出所した一松(平田知大)は、彼を待っていた弟分の三郎(能沢秀矢)に連れられて、ヤクザ、五条組の事務所に戻る。しかしそこはオカマバーとなっていた。組の跡取りである五条透子(矢澤あずな)は一松に、普通の生活を探せと言う。しかし一松は透子を放ってはおけない。そこに刑事の二階堂玲子(山本里央)や自称マフィアの権堂組が絡み合い、透子が置かれている状況がわかっていく。物語の鍵になるのは「赤いシャブ」と呼ばれる覚醒剤の一種。それは、透子の母をも苦しめていた物だった。

 劇団羅針盤『空ニ浮カブ星ノ名ハ三日月』(作・演出:平田知大)は、上記のあらすじを掴むことが大変な芝居であった。その理由としては大きく三つある。まず、4人の俳優で20人以上を演じていること。とにかく、せりふや動きのテンポが速いこと。そして、シーンが次々移り変わり、時系列も前後することが挙げられる。
 このハイスピード舞台は、劇団羅針盤の定番であり、特徴ではあるが弱点でもある。たった4人で何役をも表現しながら、高速で舞台を展開させ、途中に殺陣もある。それをやり遂げる役者陣の体力に感心する。演じる側にかなりの負荷がかかっていることは明らかであるが、観る側にも、物語を追い掛けようとすると相当な負担が掛かってしまうのだ。

 劇団羅針盤は、子ども向けの芝居の上演も行っている。その公演では、小さな子ども達にも理解できるような、ハイスピードではなく、わかりやすい表現がなされていた。つまりは、速度を緩めて観客の理解を得やすくすることも、彼らにはできるのである。その上で、この速度と情報量の表現をあえて選ぶのはなぜか。この形で表現することが物語にふさわしいと考えられているからではないか。なにがなんだかわからないくらいに錯綜し迷走し絡み合う情報の中、たったひとつ描きたいものだけを、とびきり輝かせてみせたいのではないか。

 透子の母は赤いシャブに依存し、薬の作用で透子を殺そうとした。透子を守るため、一松は透子の母を殺した。自分を殺してくれと、敬愛する組の母が一松に願ったことである。透子の母の思いを叶えるのも情であり、残された透子を守りたいと思うのも情だ。母と娘、二代にわたる女性への恋慕の情。自分を置いてくれた組への義理人情。世間からはみ出しても己の世界で生き抜こうとする姿、古くさいと言われてしまいそうな、真っ直ぐ過ぎる思い。それが、描きたかったテーマであろう。これを伝えたいという心意気は伝わる。殺陣を使った見せ場を盛り上げたいという勢いも感じる。

 それだけに、惜しい気持ちになるのだ。観客におもねろというわけではない。ただ少しだけ、今、劇団羅針盤が使っている「型」を疑ってみてもいいのではないだろうか。外側の型に変化があったとして、変えてはいけない内なる思いは、そう簡単には揺るがないのではないか。