”ある洞窟に、生まれてこの方ずっと洞窟の奥に人間たちがいる。その人間たちは十字架に磔にされていて、洞窟の奥しか見えない。奥は壁で、洞窟の入り口から来る光によって、彼らの影が見えた。彼らは横を向くこともできず、影だけが見えるのだ。つまり、彼らにとって人間とは影なのだった。しかも、彼らの声は洞窟の奥の壁に反射して聞こえるので余計にそう思えるのだ。彼らは神によって、後ろから食べ物を与えられ、言葉を知っている。彼らはお互いに話し合う、影を友人と思いながら。
そんな中、一人の人間が磔から解放される。彼は磔から逃れ、洞窟の入り口へと向かう。洞窟の入り口からは光があふれ、真っ白に見える。彼は目をまともに開けられず、ほとんど目をつぶった状態で洞窟を出る。そんな彼もだんだんと目が慣れてくる。とても上を向くことはできず、そっと下を向いたまま、目を開けてみる。すると地面が見える。しかし、次の瞬間、彼にとって人生最大の驚異が待っていた。草である。たかが草になぜそんなに驚くのか?それは緑"色"だからである。彼にとって、今まで見てきたものは洞窟の壁の茶色だけである。自分も他の人間もすべては茶色に写った"影"だけであり、モノトーンの世界だったのだ。彼にとって世界とは、セピアの世界ともいえるかも知れない。そんな彼の目に、鮮やかな緑が強烈に映る。そこで彼は"色"を知るのだ。彼は驚く、こんなに綺麗に目に写るものがあるのかと。
そして彼はさらに歩く。草むらを歩くと次に写るものは花だった。またしても彼は驚く、鮮やかな緑に感動した次は、赤や青や黄色といった生き生きとした色たちだった。こんなに美しいものがあったとは、彼はそれらを"赤"や"青"や"黄色"と呼ぶことすら知らない。いや、言葉は知っているのだ、しかし、"赤"という言葉が、この花の色ということがわからないのだ。彼はめまいがしてくる。あまりにも世界が変りすぎたのだ。そして、彼はよろめきながらも歩き続ける。
歩き続けていると、彼は川に辿り着ついた。そして、今までは口に直接入れられていた水が大量に流れるのを見る。彼はその水を飲もうと屈む。そのとき更なる驚きが待っている。"自分の顔が見えた"のだ!今まで自分を影だと信じて疑うことすらしなかった彼が、今本当の自分の顔を見ているのである。自分はセピアの壁だと思っていたが、今自分の見ているものには、くぼみや出っ張りが、そして"色"ある。自分とはこういう存在だったのかと、今まで自分すら知らなかったのかと彼は驚愕するのだ。
そうして、時間が経つにつれ彼はいろいろなものを見る。木を見て、洞窟にいたころとは桁外れの大きさのものがあることを知る。動く大型の動物を見る。色鮮やかな虫を、川の先にある池や海を、そして夜がやってくると、上を向くことができた、そして幻想的な月や星を見た。そうして自分の想像すらしていなかった世界を見続け、彼の目が慣れてきた。そして、朝がやってきて、光に慣れた彼が最後に見たもの…それは太陽だった。"
…色々なバージョンがあるのだけれど、これは"プラトンの洞窟"と呼ばれる寓話です。
さて、この後に解放された囚人が再び洞窟に戻り、拘束されている人々に向かい『お前たちが見ているものは、愚にもつかぬものだった。その拘束を解いて、共に実物に近づいてもっと実在性のあるもののほうへ向かっていこう』と投げかけたとしたら、その「実在性」を知らぬ囚人は彼になんというだろうか?恐らく彼がどんなに真実を語ったとしても、彼に対し批判と非難を浴びせることしかしないであろう。
主観というものは人間にとって切っては切れないものである。しかし自らを拘束しているものを解き、「外」を観ることができるチャンスがあるにも関わらずそれをせずに、あくまでも自分の中の「真実」という脆弱な価値基準を基に人や物事を測り批判をすることは、愚行と呼ぶ以外なにものでもなく非常に哀れな行いであろう。
なにかしらの批判するのであれば、主観を論理を用い根拠を立てながら説明を行い、主張されるべきではないだろうか。
人は皆、それが「幸せ」だとか「不幸」だとか抽象的な概念になればなる程、「脆弱な真実」を確固たる真実として用い物事を測り比べたがる。そして大半の人が他者との比較を行なう。実際のところ私もそうだ。
しかし比較をした後に「不幸自慢」から「妬み」や「憎悪」をその比較対象者にぶつけるのは間違っている。
そこに論理という客観性がなければ尚更愚かであるとしか言えない。比較をするのは結構、だからと言ってそこから他人の「幸せ」や「不幸」や「価値」というものを決めるのはどうだろうか?
「甘い環境にずぶり浸って、難しい文章書いていずれ出世して、友と文化や文学という贅沢産物味わって、他人の痛みに自分が鬱になるだけでまたすぐに甘い生活に戻れる。」
この言葉で伝えたかったことは何だろうか?疑問を持たずにはいられない。
難しい文章を私は書いているつもりはない、それは他者からの額縁にしか過ぎない。そしてそれが一概に「出世」という社会的ステータスに直結することにも懐疑的である。「出世」というものも数多くの要因から産まれる結果にしか過ぎない。
親や友人に恵まれたければ、より一層自分の環境がいかに恵まれているかを自覚し、還元することに徹するべきだと私は思う。それは決して「甘い環境」ではない、自己成長という「厳しい環境」というものに転換することを実感するだろう。
文学や学問に触れたければ図書館や人との会話にそれを見出せばいい。それらは決して「お金」という貨幣を通さずとも味わえる「贅沢な産物」であることに気がつく。
…正直な話、私はこの言葉を発した人物に対し哀れみを持たずにはいられない。いかに自分の中に可能性が潜在しているかを知らないからだ。
これらの言葉を投げかけることで、再度「見下している」と言われるかもしれない。だけれどもそれは私が見下しているのではなくその人物が「見上げている」だけに過ぎない。一般的に語られる「幸福論」や「不幸論」とはそういう行為ではないだろうかと考える。
その言葉を私に投げかけた人物は今後私を憎み、「環境に甘えている」と言い、非難を浴びせ続けるだろう。しかし私は洞窟の中に留まることをしない。寧ろ、留まれないと言った方が正しい。私はこの哲学を信じて前に進みたい。故に洞窟の奥から響く声に耳を傾けることはしないだろう。
これが私に与えられた「厳しい環境」だ。その事実に少しでも気がついてもらえることを願う。