
桃生城跡(ものうじょうあと)は、宮城県石巻市桃生町太田に所在する古代の城柵遺跡です。 城柵(じょうさく)とは、奈良・平安時代に律令国家が東北地方に設置した施設です。 当時の東北地方は、まだ国家側の支配に完全には組み込まれていない「蝦夷(えみし)」とよばれる人々が暮らしていました。 城柵は、かれら蝦夷のいる東北地方への進出を目的として設けられたもので、軍事的機能と行政的機能をあわせもっていました。 桃生城もその城柵のひとつ。 760年(天平宝字4)に完成しました。 『続日本紀』天平宝字4年正月4日条には、「陸奥国牡鹿郡において、大きなる河をまたぎ、たかき嶺をしのぎ、桃生柵をつくりて賊の肝胆を奪う」と記されています。 ところが14年後の774年、桃生城は突如として蝦夷の攻撃を受けます。 『続日本紀』宝亀5年7月25日条に、「海道の蝦夷、たちまちに宗徒を発して、橋をやき道をふさぎて、既に往来を絶つ。桃生城を侵してその西郭をやぶる。鎮守の兵、勢い支うるあたはず。国司事をはかる。軍をおこしてこれを討つ」とあります。 この桃生城への攻撃以来、律令国家と蝦夷との対立は激しくなります。 この年から、文屋綿麻呂を征夷大将軍とする811年(弘仁2)の征討までの長きにわたる争いは、東北の古代史で「三十八年戦争」とよばれることがあります。 桃生城跡は、そのような古代の動乱のはじまりの地です。 上の写真は、桃生城跡の立地する丘陵の遠景。 南東から撮影したものです。

上の画像は、グーグルアースで見た桃生城跡の周辺。 桃生城跡は、北方からのびる丘陵群の南端にあり、西と南に広がる平地に臨みます。東を北上川、西を旧北上川によって囲まれています。 周辺にある古代遺跡としては、北西に奈良の大仏に使用された金を産出したとされる天平産金遺跡、南西には古代の役所である「牡鹿柵」もしくは「牡鹿郡家」と推測されている赤井遺跡があります。

上の写真は、桃生城跡の入口にある説明版。 新田交流会館という公民館のような施設のそばにあります。 「桃生城跡」というような目に付きやすい大きな看板などはないので、注意が必要。 新田交流会館と説明版の間を通る道を進むと、すぐに2又に分かれますが、そこを左に曲がり、大きく西から回るようにして桃生城の中心部にあたる政庁跡をめざします。

これは、政庁跡のそばに建つ説明版に掲載されている、桃生城跡の全体図。 桃生城跡は大きく全体を土塁で囲み、中心部東寄りに中枢施設である政庁跡、その西側に実務官衙域とみられる建物群が発見されています。

これが政庁跡。 枯草に覆われており、よく分かりません。 昨年、地元紙でこの桃生城跡の現状が報道されました。整備が必要ではないかという論調。 たしかに、税金を使っての学術調査が行われたにもかかわらず、史跡等にも指定されず、説明版2枚がある程度で整備が不十分なのは問題でしょう。 ただ、先ほどの全体図を見ても分かるとおり、調査が行われたのは全体のごく一部。 外郭の門などもまだ発見されていません。 桃生城跡は、分からないことがまだ多く残されています。

こちらは、説明版に掲載されている政庁の復元図。 政庁跡の調査では、正殿、後殿、東西の脇殿が発見され、それら建物群を瓦葺の築地塀が囲んでいたと考えられています。

こちらは、桃生城の北辺土塁。 現状で、城内側から見て50cm、城外側から見て1m程度の高まりが確認できます。

最後、下の写真は、政庁跡で寝転がって撮影した空。 暗いほど青い色をしていました。 桃生城の戦いで、命を落とした人はいたのでしょうか。 整備について問題も指摘されてますが、むしろ整備されていないからこそ想像できる楽しみもあります。 今月の『考古学ジャーナル』誌上でも指摘されていますが、史跡整備は中途半端に行われてしまうと、逆に訪れた人の想像力を阻害したり、誤解を与えたりする可能性もあります。 桃生城跡も、あるいはこのままでもいいのではないかと思ってしまいます。 ただ道順などの標示は分かりやすくしてほしいです。