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きょうは、
宮城県の北部にある栗原市で行われた、伊治城跡(これはるじょうあと)の発掘調査現地説明会にいってきました。

伊治城跡は、いまから1200年以上前の奈良時代、神護景雲元年(767)に造られた城柵です。

当時、このあたりは日本の律令国家の勢力範囲の周縁部。
国家の支配に完全には服してはいない「蝦夷(えみし)」とよばれる人々も多く暮らしていました。

伊治城跡が建てられた目的は、宮城県北部地域における支配を強化するためであったと考えられています。

ところが、建設後すぐの宝亀11年(780)、地元の有力者であった伊治公呰麻呂(これはるのきみあざまろ)が、伊治城内で陸奥国と出羽国をつかさどる按察使(あぜち)の紀広純(きのひろずみ)らを殺害した大事件、「伊治公呰麻呂の乱」が起きました。

伊治城は、東北の古代史、とくに日本の律令国家と蝦夷との間に交わされた激しい対立を象徴する遺跡として、とても重要な意味を持っています。
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今回の現地説明会は、第41次発掘調査の発表でした。

集まったのは40人ほどでしょうか。
若い人もけっこういたのですが、子供がゼロだったのは残念でした。

この41次調査が行われたのは、伊治城の中枢である政庁外の北側。内郭北東部の状況を確認する事が目的でした。

調査の結果、乱による火災の前と後に建てられた建物群や、それらを区画する一本柱列跡が発見されました。

建物群と一本柱列跡は同じライン上で確認されており、建物の計画的な建設のために造営基準があったことが判明しました。

下の写真、中央付近に引かれている白い紐のラインが、一本柱列跡のラインです。
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古代城柵の伊治城跡はいかにして造られたのか。
伊治公呰麻呂の乱後の伊治城はどうなったのか。

以上2つを考えるにあたって、とても貴重な成果が得られた調査であると言えるでしょう。


【参考文献】
栗原市教育委員会 2012 「史跡 伊治城跡第41次発掘調査現地説明会資料」