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きょうは、
多賀城市で行われた多賀城跡政庁正殿跡の発掘調査現地説明会に行ってきました。

多賀城の中枢である政庁。
その中で最も重要な建物であった正殿が発掘されるのは約40年ぶりの事。

2011年3月11日の地震で正殿基壇を覆う保護のためのアスファルトが損傷し、
その復旧工事にともなって発掘調査が行われる事になりました。

このような正殿の全面的な調査は、今後おそらく無いと思われます。
とても貴重な機会でした。
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教科書にも登場する多賀城。
さすがそのネームバリューのせいか、見学者の方がたくさん!

多賀城は、奈良時代に造られた城柵(じょうさく)の一つで、
畿内に中心をもつ日本の古代国家が東北地方進出の中枢として設けた施設です。

当時の東北地方北部は、国家側の支配に完全には組み込まれていない蝦夷(えみし)と呼ばれる人々が暮らしていました。

この地を支配するために設置された多賀城は、行政的な機能と軍事的な機能を有し、陸奥国府と鎮守府が置かれていました。

多賀城の中枢が政庁と呼ばれる施設で、その正殿は儀式をはじめとして、行政実務や宴会などもおこなわれた最重要の中心的建物でした。

今回の調査では様々な発見がありました。

最初に建てられたⅠ期(724~762年)の掘立柱式の正殿建物は、
従来は桁行5間で梁行2間と想定されていましたが、
今回の調査によって梁行が3間であることが分かりました。
地山削り出しの基壇の上に、南側にひさしが付く5×3間の掘立柱建物跡が建つ、最初の多賀城正殿の正確な姿が明らかになりました。

また、これまではⅡ期(762~780年)以降の建て替えが不明でしたが、
礎石式に変わるⅡ期以降の正殿の礎石据え穴に、新旧の重複があるものが見つかり、780年に起きた伊治公呰麻呂の乱の後に同位置で礎石を据え直していた事がわかりました。
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こちらは、正殿の南側柱列のうち、西から3個目の柱跡の状況。

Ⅰ期に掘立柱を据えた大きな柱穴があり、
Ⅱ期の建物を建てる前に、その柱を抜き取る穴が南北方向に入れられています。

柱を抜き取った後、礎石を据えるための穴を掘り、根石の上に大きな礎石が据えられています。
(※上の写真で見えているのは、Ⅲ期の礎石据え穴)
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こちらは、正殿の西側柱列のうち、南から2個目のⅠ期の柱跡の状況。

深く掘られた柱穴と、その抜き取り穴が確認できます。

柱穴のちょうど中心部分に、なにやらくぼんだ箇所があります。

これは据えられていた柱の跡であるとみられます。
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ちょうどこんな感じです。

その幅から、柱の太さはおよそ40cmと推定されています。
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先ほどの柱穴の写真の左側(西側)、
こちらでは、柱抜き取り穴の上を基壇盛土が覆う状況が確認されました。

Ⅰ期の建物基壇は地山を削り出したものでしたが、
Ⅱ期の建物を建てるにあたって、Ⅰ期の柱を抜いた後、Ⅰ期の基壇の周りに盛り土をして基壇範囲を外側に広げている事がわかりました。
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こちらは遺物見学コーナー。

といっても、今回の出土遺物ということではなく、多賀城政庁の代表的な遺物として、Ⅰ~Ⅳ期の軒丸瓦・軒平瓦と鹿文磚(シカの文様が描かれたレンガ)が展示されていました。

鹿文磚はいちど間近に見てみたかったので、嬉しかったです。


現在、政庁では脇殿や後殿などの建物跡の整備が着々と進められています。
以前はオンボロなわびしい姿をさらしていた多賀城政庁跡ですが、もうすぐ綺麗に整備された光景を見る事ができるようです。
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【参考文献】
宮城県多賀城跡調査研究所 2012 「多賀城跡 -正殿跡発掘調査 現地説明資料-」