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怡土城跡は、福岡県前原市高祖に所在する古代の山城です。



怡土城跡は標高416mの高祖山の西斜面からその裾野の平地にかけて立地しています。
規模は外郭全周が、およそ6.5km。平面形はゆがんだ方形をしています。


外郭線は土塁で囲まれており、平地に立地する西辺では土塁基底部に石塁が見られます。


外郭線には5ヵ所に城門があり、各所に望楼跡が確認されています。


①枚目の写真は、西側から眺めた、怡土城の立地する高祖山。
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グーグルアースで見た、怡土城と大宰府との位置関係。


大宰府から怡土城までは、およそ40kmほどです。


南へ20kmほど行くと、雷山の古代山城(雷山神籠石)があります。



怡土城は、768(神護景雲2)年に完成した山城で、築造担当者は吉備真備で、途中から佐伯今毛人(さえきのいまえみし)です。


怡土城築造の理由は、新羅との関係悪化から、対新羅防衛体制整備の一環として築造されたと考えられています。


朝鮮式山城や神籠石系山城など、7世紀後半~8世紀初頭にかけて造られたとみられる古代山城に対して、756(天平勝宝8)年に築造が開始された怡土城は、奈良時代山城(※)などと呼ばれたりしています。


古代の山城でも、怡土城は他と比べて築造時期が新しいため、分けて考えられる事が多いです。西日本の古代山城を総合的に扱った論文でも、怡土城はベツモノとして論じられないという場合があったりします。とても残念な事です。


北部九州で怡土城が造られていた頃、東北地方では多賀城を代表とする城柵が築造されていました。この両者になんらかの関係はあるのか、無いのか、という問題は、古代日本の城郭研究にとって非常に重要ではないかと思うのですが、どうでしょうか。


同じ時代に、築造に関する技術や思想を大きく異にする軍事機能を備えた施設が、中央政権の方針の下で全く別々に造られるということが、ありうるのでしょうか。




※論文によっては「中国系山城」の語が用いられている場合もありますが、何をもって中国系と言えるのかという問題もあります。
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こちらは、怡土城跡を山裾から登ってすぐの、第5望楼跡。


高祖山から派生する標高50mほどの丘陵上の平坦部に立地しています。
怡土城では北西隅に近い場所に立地しています。


2×3間の礎石建物跡です。


調査では、土師器・須恵器などの土器類や、瓦や塼(古代のレンガ)が出土してます。
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第5望楼跡の礎石(東側北から2番目)
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さらにそのアップ。


礎石上面には、20×25cmほどの方形の彫り込み見られます。




怡土城の望楼跡は、ここを含めて北辺外郭線上に第1~第5までの5基、城内南東に一ノ坂礎石群、外郭南西隅に一丁月見礎石群、西辺に懸庄礎石群、などが確認されています。


私はまず第5望楼跡に登り、第4と第3まで行きましたが、それより標高の高い東側の第2や第1望楼跡までは、連日の疲労のため行けませんでした…。残念。
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こちらは、怡土城の西辺。大門口とよばれる城門推定地付近の土塁の様子。


田んぼの奥、段状に高くなっているのが土塁です。
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土塁に近づいてみました。


前の写真の右側のあたり。


草に隠れていますが、土塁基底部の石塁が見えます。


以上で3月の福岡旅行の記事は終わりです。
時間の関係や、交通の関係でいけなかった場所もあるのですが、全体的に満足のいく旅行でした。





【参考文献】
亀田修一 2008 「日韓古代山城の比較」『古代武器研究』第9号
高橋学而 1985 「古代山城研究における課題」『歴史評論』417号
前原市教育委員会 2006 『国指定史跡怡土城跡』(前原市文化財調査報告書第94集)