
ちょっと遅くなりましたが、4月の始めに行ってきた福岡旅行の様子を、簡単にご紹介しようと思います。 福岡へは、バスで行きました…。 片道14時間。ちょっときつかった。 4月3日21時15分新宿駅前発、4日11時福岡駅前着。 そのまま地下鉄に乗り込み、大宰府へ。 大宰府に来たのは2年ぶり。 ちょうどお花見シーズン。桜は満開で、大宰府政庁(都府楼)跡はたくさんの人でにぎわっていました。 政庁前北側の道を西へ行き、三叉路を右折して北へ。 大野城跡を目指します。 大野城跡は、古代に西日本各地に造られた「朝鮮式山城」の一つ。 663年8月における白村江での敗戦後、大陸からの侵攻に備えた対外防衛施設として、日本の古代国家は西日本各地に山城を築造しました。 西日本の古代山城のうち、 大野城・基肄(きい)城・鞠智(きくち)城など、『日本書紀』や『続日本紀』などの歴史史料に記録がある山城を『朝鮮式山城』 鬼ノ城(きのじょう)・高良山古代山城・御所ヶ谷古代山城など、歴史史料上の記録はありませんが、遺跡が見つかっている山城を『神籠石(こうごいし)系山城』 と呼んでいます。 これら古代山城に関しては、年代観、機能や役割、分類、「神籠石」という呼称なども含め、様々な問題点が指摘されており、議論が続いています。 このブログは「考古学ブログ」ではないので、そういった論点には立ち入らない事にします。 単に遺跡の紹介にとどめたいと思います。 大野城は、大宰府防衛を目的に築造された山城で、四王寺山の稜線や谷を囲む周長は約8kmと、古代山城の中では最大規模です。 ①番目の写真は、大宰府政庁跡から見た四王寺山。 この四王寺山に大野城跡が立地しています。

グーグルアースで見た大宰府及び大野城周辺。 中央の白いラインが大野城の城壁ラインです。 報告書の図からトレースして重ねてみたのですが、形や位置は若干ずれていると思います。 ただ、大きさはだいたい合ってます。 大野城がいかに巨大な山城であるか、お分かりいただけると思います。

城内を囲むようにして、稜線上には土塁、谷部には石塁が設けられています。 また、北側と南側では、土塁が二重にめぐっています。 城門は4ヶ所確認されています。 ②番目の写真はその内の一つ、大宰府口城門です。 北側(城内側)から撮影しています。 この城門は発掘調査が行われており、2度の建て替えが行われていた事が確認されています。 最初の第Ⅰ期の城門は掘立柱の八脚門で、うち一つの柱穴から発見された柱根木材に対する年代測定(年輪年代法)では、西暦648年という測定結果が出されています。 大野城に関しては『日本書紀』の667(天智4)年8月の記事に、 「達率憶禮福留、達率四比福夫を筑紫国に遣わして、大野及び椽二城を築かしむ」 との記録があります。 この大野城創建に関する記録と、木材の年代が近い点は注目すべき事実といえます。

③番目の写真は、大宰府口城門跡に残る礎石。 創建期の城門は掘立柱でしたが、その後の建て替えで礎石建物へと変えられています。 写真でも分かるように、扉の軸受け穴が認められます。

城門の西側には石積みが残っています。 水ノ手口石塁と呼ばれており、上部幅2m、下底幅7m、城外側が長さ20m、城内側が長さ15m遺存しています。 ④番目の写真は、水ノ手口石塁の城外側の様子。 自然石を、外側の面をそろえて積んでいます。

一方、城門の東側は、門に近接した部分は石積みがありますが、その東側は尾根の地形を利用した土塁が続いています。 ⑤番目の写真は、その土塁上から南方を眺めた様子。 写真左側、中ほどからやや上、森の中に大きくてピカピカした建物がありますが、それが九州国立博物館です。
【参考文献】
小田富士夫 1997 「西日本古代山城に関する最近の調査成果」『古文化談叢』第37集
横田義章 1991 『特別史跡大野城跡Ⅶ 大宰府口城門跡発掘調査概報』 福岡県教育委員会
向井一雄 2004 「Ⅸ-2 山城・神籠石」『古代の官衙遺跡Ⅱ 遺物・遺跡編』 奈良文化財研究所
小田富士夫 1997 「西日本古代山城に関する最近の調査成果」『古文化談叢』第37集
横田義章 1991 『特別史跡大野城跡Ⅶ 大宰府口城門跡発掘調査概報』 福岡県教育委員会
向井一雄 2004 「Ⅸ-2 山城・神籠石」『古代の官衙遺跡Ⅱ 遺物・遺跡編』 奈良文化財研究所