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前回ご紹介した、陵山里古墳群の近くの羅城に近づいてみました。


「羅城」(らじょう)とは、都市を取り囲む城壁のことです。


扶余の羅城は、百済時代に扶余、当時の泗沘(しび)の都を守るために造られました。



扶余の羅城は、かつて王都全体を囲うように存在したと考えられていましたが、近年の調査で羅城の存在が考古学的に認められる部分は北羅城と東羅城のみである事が判明しています。


北羅城は0.9km、東羅城は5.4kmで、総延長は約6.3kmです。


1999年~2000年に行われた「西羅城」通過推定地点の調査では、羅城の痕跡は全く確認できず、錦江の自然堤防に該当する地点で朝鮮時代の堤防が築造されているのみでした(朴2007)。


西羅城や南羅城は当初から存在せず、錦江が自然の濠のような機能を持って泗沘都城の防御に役割を果たしたことが想定されています(朴2002)。
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城壁の様子。


城壁の上のほうの白っぽい石は復元のために使用された石で、下の茶色っぽい石が当時の石積み。


当時の石積みは少し荒く調整された石が使用されたのに対し、復元に使用された石は綺麗な切石になっちゃってます…。



羅城の築造技法は、東羅城の陵山里地域に代表される低地帯通過部分では多様な軟弱地盤処理工法が確認されています。


木の枝を20~30cm間隔で反復的に敷きながら盛土する枝葉敷設などの圧密浸下排水工法のほか、城壁の下端に一定間隔で杭を打って城壁崩壊を防ぐ工法などが採用されています。


また、低地帯の一部地点では、城壁内側に木柵状の構造物を城壁と平行させて設置し、その内側の一定範囲に枝葉敷設盛土をすることで城壁本体を堅固に支えるようにした工法も確認されています。


一方、地盤が比較的堅固な山地や低丘陵地帯を通過する部分では、まず城壁が通る部分の山麓斜面を削土してから盛土し内托土築部を先に造り、その外側の幅約4mほどの部分に割石や整形した石材で石築城壁を築く方式が採用されました。
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羅城の上に登ってみました。


陵山里古墳群や陵山里寺跡も見えます。


ちょっと分かりにくいですが、
上中央のやや右よりの、三角形に木々が切り開かれている部分が陵山里古墳群。
その少し左側の、青色の部分のあたりが陵山里寺跡。
です。


羅城の築造時期については、東羅城塩倉里山麓地点の築城盛土層内に混入した三足器など6世紀前半に比定される資料から、538年の遷都以前には完成したとみられています。


扶余羅城に関しては、防御的性格よりも、都の内外を区画する意味の方が大きいのではないかとする意見や(東・田中1989)、中国南朝の都である建康城(南京)との類似点の指摘(秋山1985)などがあります。
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復元整備中の陵山里寺跡の近くから見た、泗沘羅城。


右側の高まりが羅城の城壁。


写真左側には、その羅城の続きが小さく見えます。
上の3枚を撮影したのがその場所です。






次回はこの韓国旅行編の最終回。
王興寺跡を訪れます。




【参考文献】
秋山日出雄 1985 「江南の都城遺跡 -南朝の古都「建康」」『中国江南の都城遺跡』 同朋社
東潮・田中俊明 1989 『韓国の古代遺跡 2百済・伽耶篇』 中央公論社
佐藤興治 2007 「第9章百済の都城 1王城」『古代日本と朝鮮の都城』 ミネルヴァ書房
申鍾国 2007 「泗沘都城発掘調査の成果と意義」『福岡大学人文論叢』第39巻第1号 福岡大学
朴淳發 2002 「泗沘都城」『東アジアの都市形態と文明史』 国際日本文化研究センター
朴淳發 2007 「泗沘羅城研究の現段階」『溝漊』第13号 古代山城研究会