
官北里遺跡は、扶蘇山城南側の平地に立地している遺跡です。 これまでの調査で、いくつかの礎石建物跡や建物基壇、方形蓮池、道路遺構などが発見されており、泗沘期における百済の王宮の有力な推定地とされています。 写真①枚目、一番奥が扶蘇山。中央の大きな建物が扶余文化財研究所(旧国立扶余博物館)。手前の、フェンスで囲まれているのが官北里遺跡。 この写真では見えませんが、この道路の左側では発掘調査が進行中です。 ただし、この日は日曜日だったのでやってませんでしたが。

写真②枚目。 これは、扶蘇山城入口近くの駐車場手前にある、官北里遺跡で発見された大型建物跡の、3分の1の模型。 実際に建物跡が発見されたのは、ここから南へ100mほどの所です。 建物跡は、東西35m、南北18m、7×4間の建物であった事が判明しています。 出土した瓦などから、この建物は泗沘期でも遅い時期に建てられたのではないかと見られています。 この大型建物跡は、寺院の講堂跡、あるいは王宮の正殿ではないかとの意見が出されていますが、まだ確実な事はわかっていません。 ところで、 この建物基壇(模型)のまわりをよく見ると、何かが散らばっている…。

って瓦です!!! 建物基壇はただの模型ですが、これは本物。 古代の瓦です。

中には、こんなのも混ざってました。 いいのか!? これは、建物の軒先に用いる瓦で、軒丸瓦(のきまるがわら)といいます。 破片ですが、八葉単弁蓮華文軒丸瓦です。 やや全体的にフラットすぎるような気がしますが、百済時代のものでしょう。

これは土器片。 甕の頸部でしょうか? 土器は分かりません。 他にも、時代は新しいですが、高麗時代の青磁片などがいくつかあったりしました。 ところで、何でこんなものがここにあるのかというと、発掘で出土した遺物のうち、重要なものは収蔵庫で保管されているのですが、そんなに重要というわけではない(?)遺物に関しては、遺跡を訪れた人々が実際に見ることができるよう、このような形で置いてある、と扶余文化財研究所の方がおっしゃっていました。 でも中には、整理作業の時につけた注記がある遺物もあったりして、「いいのか!?」と思ってしまいます。 先ほどの軒丸瓦に関しては、先生が研究所の方に後でお話したところ、「ほんとうですか?」と、ちょっと驚いていた。間違って混ざってしまったのか、よくわからない…。 本当はもうちょっと遺物を見ていたかったんですけど、今日はまだ行く所があります。 急がねば。 次回は陵山里古墳群を訪れます。
