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扶蘇山城は、錦江南岸の扶蘇山におかれた百済の泗沘時代に造られた山城です。


山城は、泗沘楼のある標高104.9mの送月台頂上部付近に土塁をめぐらす部分と、軍倉跡のある標高98.2mの迎月台を中心とした部分の2つの鉢巻式山城と、これをつないで楕円形に城壁をめぐらした包谷式山城からなる複合式山城です。


しかし、1992~1995年の調査の結果、泗沘楼のある鉢巻式山城は統一新羅時代、軍倉跡のある鉢巻式山城の東半部は朝鮮初期の築造であり、百済時代の城壁は包谷式山城の部分(総長2495.6m)のみであることが明らかとなっています。


①番目の写真は、扶蘇山城東側城壁の様子です。


扶蘇山城の城壁は、現在確認された地点では全て版築による土塁です。
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城壁はけっこう良く残っていました。


②番目の写真は、軍倉跡とされる場所の近くの城壁。
この城壁は朝鮮時代(李朝)のもの。


扶蘇山城では、城門は南と東の2ヶ所で確認されており、礎石などが見つかっています。


南門の西側で1ヶ所、東門の南で1ヶ所、雉(ち)と呼ばれる施設が確認されています。
この雉(ち)というのは、日本の中世城郭における櫓(やぐら)のようなもので、城壁から外側に方形に突出した構造の施設で、城壁に取り付いた敵兵に横から矢で攻撃するなどして防御するためのものです。
中国では馬面(ばめん)と呼ばれます。
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こちらは、扶蘇山城の城内の南東部にある竪穴住居跡。


一辺の長さが約4mの方形で、中央部床面には柱穴が4つあります。


また、東側の壁(写真では右側)にそってカマドを兼ねたオンドルが設置されています。


この建物跡は、カマドの床面から百済土器の蓋がみつかり、その周辺からは武具類が出土しており、百済時代における兵舎跡ではないかと考えられています。
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ここは扶蘇山の山頂で、泗沘楼と呼ばれる建物が復元されています。


この泗沘楼の周辺には、百済時代の城壁の他に、統一新羅の時代の城壁もめぐっています。
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こちらは、扶蘇山城の北西の城外にある落花岩といわれる場所。


660年の百済滅亡の際、唐・新羅の連合軍の捕虜となる事を拒んだ3千人の官女たちがこの岩から錦江へと身を投げ、美しい衣裳のまま飛び降りるさまが、まるで花が落ちるようであったため、落花岩という名称となったそうです。
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落花岩の近くから撮影した錦江。


この錦江の河口付近が、有名な白村江ではないかと見られています。


今はただ、穏やかにゆるゆると流れている錦江ですが、1400年前は数々の悲劇が繰り広げられた場であったわけです。





次回は官北里遺跡を訪れます。