
夢村土城を見学後、ちょっと道を迷いつつも石村洞古墳群へ。 私たちを乗せるタクシーの運転手さんは、ここへ来るのは初めてだったらしい。 途中で道を聞きつつ、住宅街の道をぬって、ようやく到着。 石村洞古墳群はソウル特別市松坡区石村洞に位置し、漢江の南岸に立地している百済時代前期の古墳群で、積石塚・封土墳・土壙墓・甕棺墓などの墳墓が確認されています。 戦前の報告では、積石塚66基、封土墳23基が分布していたとされていますが、当時既に集落が存在していたので、本来はもっと多くの墳墓が存在していた可能性があります。 1916(大正5)年、今西龍によって調査が始められ、翌1917(大正6)年には谷井済一によって「石村里6号墳」および「石村里7号墳」が発掘されています。その後は長く調査がされる事がなく、畑地化したり民家の下になったり、壊滅状況にありましたが、1974年に石村洞3・4・5号墳が調査され、以後調査および史跡整備が精力的に行われています。 上の①番目の写真は、石村洞3号墳。 石村洞3号墳は、1974年・1983年・1984年に調査が行われ、東西50.8m、南北48.4m、高さ4mの巨大な方形基壇積石塚である事が判明しました。 古墳は整地作業を行った後、40~50cmの土を敷き、切石状の石材を外面に小口積みで面を整え、内側は割石を充填し、三段以上に築成しています。主体部は中心部から西南側にあり、その床面は三段の中間部にあたると見られています。盗掘を受けていますが、積石部からは金製瓔珞、東晋の4世紀後半から5世紀初頭のものとみられる中国磁州窯産の青磁盤口壺の破片、肩に斜格子文がついた直口壺、玉作り用の砥石などが出土しています。古墳の規模の大きさや出土品などから、百済の近肖古王(357年没)の墓に比定する考えもあります。 現在は写真のように、立派に復元整備されていますが、むかし同行のT先生が最初に来た時にはこの古墳の上に家が建っており(!)、その家に飼われていた犬に吠えられたそうです。 それにしても大きな積石塚です。

これはグーグルアースで見た石村洞古墳群の周辺。 風納土城や夢村土城からも近い位置にあります。

これはさらに拡大したもの。 積石塚は3つほど復元されていて、 北から3号墳・4号墳・2号墳と並んでいます。 古墳群はこのように住宅街に囲まれています。

こちらは、3号墳の南約80mのところにある4号墳。 4号墳は三層の方形基壇積石塚です。一辺30mで、外面は長方形状の板石小口積みで面を整え、内側は石ではなく粘土を充填しています。 墳頂中央に東西4.6m、南北4.8mの石槨があり、南壁中央に羨道状施設が付く。兵庫鎖の付いた金製耳飾や土器が出土したほか、積石第3層から青灰色軟質瓦が多量に発見されています。4世紀後半から5世紀前半ごろの造営とみられています。

4号墳には、このように側面に板石が立てかけられています。 中国・集安の高句麗時代のお墓である将軍塚でも、これよりもずっと巨大な縦長の石を、墳丘側面に立てかけています。

こちらは2号墳。 2号墳も4号墳と同じくらいの大きさですが、後世の破壊を大きく受けています。 主体部からは木棺などが見つかっています。

4号墳と2号墳を北側から撮影。 手前が4号墳で、奥が2号墳。 このような積石塚は、かつてはもっと多く存在していたらしく、石村洞では現在十数基の積石塚が確認されています。それ以外にも破壊によって失われてしまった古墳もあったでしょう。 積石塚は渾江流域・鴨緑江流域・大同江流域など高句麗の領域内で広く築造されています。韓国国内では、石村洞以外には漢江の中上流域でも数多く確認されています。これらの漢江流域の積石塚については、高句麗から南下した初期百済建国者の墓、南下した高句麗人の墓、など諸説あります。 石村洞古墳群には、これらの積石塚の他にも、円墳や土壙墓・甕棺墓などがあるのですが、今回は時間が無くて見れませんでした。 というのも、このあと電車で大田(テジョン)まで行かなければならないのです…。この時点で既に午後4時45分。もう夕方。 ソウル駅へ急げ! ソウル駅からKTXという韓国版の新幹線に乗って大田へ。 大田駅には19:45着。そこから地下鉄で儒城温泉へ行き、午後8時にホテル着。 その後、韓国側の研究者の方たちとお食事&お酒。 寝る頃にはグッタリ。 あわただしい一日でした。 次回は松院里遺跡を訪れます。
【引用参考文献】
東潮・田中俊明 1989 『韓国の古代遺跡 2百済・伽耶篇』 中央公論社
早乙女雅博 2000 『朝鮮半島の考古学』(世界の考古学⑩) 同成社
東潮・田中俊明 1989 『韓国の古代遺跡 2百済・伽耶篇』 中央公論社
早乙女雅博 2000 『朝鮮半島の考古学』(世界の考古学⑩) 同成社