先ほどの道から外れて、
家々の間の細い道を行くと、
豊浦寺跡こと現在の向原寺に着きます。
家々の間の細い道を行くと、
豊浦寺跡こと現在の向原寺に着きます。

山門と本堂には「豊浦寺跡の遺構を見学したい方は申し出ること」との張り紙。
休日のまだ9時でしたが、
「すみませーーん、ごめんくださーい」
と庫裏に声をかけると住職さんが案内してくれました。
「すみませーーん、ごめんくださーい」
と庫裏に声をかけると住職さんが案内してくれました。
寺の奥へ進むと覆屋があり、
そこに発掘当時のままの遺構が露出して保存されています。
そこに発掘当時のままの遺構が露出して保存されています。

住職さんは、
発掘にいたるまでのお話や豊浦寺の歴史的背景まで、
非常に非常に丁寧にお話して下さいました。
約40分ほどの講義です…。
発掘にいたるまでのお話や豊浦寺の歴史的背景まで、
非常に非常に丁寧にお話して下さいました。
約40分ほどの講義です…。
欽明天皇13年(552年)に百済の聖明王が欽明帝に仏像と仏典を贈りました。 この仏像を蘇我稲目(馬子の父)が飛鳥の向原にある自分の屋敷を寺としてこれを信奉したのが、この寺の始まりとされています。 しかしその後、各地で疫病が流行し、仏教に批判的な物部尾輿(もののべのおこし)らは、外国の神を礼拝したため神々の怒りを招いたのだとして、この向原の寺を焼いてしまいました。 崇峻5年(592年)、ここで最初の女帝である推古天皇が即位します。日本書紀には、その即位した場所は「豊浦宮(とゆらのみや)」と記されています。この豊浦宮は新たに造られたものではなく、蘇我氏の邸宅を転用したものではないかと考えられています。 推古11年(603年)に宮が小墾田の地に移されると、ここは蘇我馬子に与えられて豊浦寺となりました。当初は尼寺だったようです。
1957年以来、現在の向原寺の寺域を中心に発掘調査が行われ、本堂の北50mの所で金堂に関係すると見られる石列が、庫裏改築に伴う調査では講堂跡と見られる瓦葺の礎石式建物が発見されました。
かつての豊浦寺は南から北へ塔・金堂・講堂が並ぶ四天王寺式の伽藍配置であったと推定されています。
さらに、講堂と推定される建物跡の版築基壇の下から、石敷きの遺構と掘立柱建物が現れました。
建物廃絶後の堆積層から出土した土器の年代から、石敷きと掘立柱建物の遺構の年代は7世紀初頭に比定され、掘立柱建物は豊浦宮である可能性があります。石敷き遺構は建物の周囲を舗装していたものです。
写真で見るとわかるように、柱穴には抜き取り痕がみられます。住職さんいわく、小墾田宮に転用されたのではないかとの事。石敷きの石がいくつかはがれていますが、これは柱を抜き取った時の作業中にはがれたのではないか、とおっしゃっていました。
かつての豊浦寺は南から北へ塔・金堂・講堂が並ぶ四天王寺式の伽藍配置であったと推定されています。
さらに、講堂と推定される建物跡の版築基壇の下から、石敷きの遺構と掘立柱建物が現れました。
建物廃絶後の堆積層から出土した土器の年代から、石敷きと掘立柱建物の遺構の年代は7世紀初頭に比定され、掘立柱建物は豊浦宮である可能性があります。石敷き遺構は建物の周囲を舗装していたものです。
写真で見るとわかるように、柱穴には抜き取り痕がみられます。住職さんいわく、小墾田宮に転用されたのではないかとの事。石敷きの石がいくつかはがれていますが、これは柱を抜き取った時の作業中にはがれたのではないか、とおっしゃっていました。
遺構を観察しながら、推古天皇や聖徳太子もあの石敷きの上を歩いていたのかな、と思いました。
ん~!なんだかいきなり飛鳥の凄さを見せつけられた感じです。
やっぱり都はすげーなー、と東北のエミシの地から来た田舎者の虎箱はため息をつきました。
やっぱり都はすげーなー、と東北のエミシの地から来た田舎者の虎箱はため息をつきました。