1月の21日に冥王星が入って、後少しで三週間となる。

昨年の3月にも水瓶には入ってたはずなのに、その頃の記憶はあまりない、というか、今年の1月の方がどう考えても強烈な印象がある。


2023年の3月24〜6月12日まで、冥王星は水瓶座に滞在していた。


一体この頃はなぜ何も記憶がないのか。

まぁ、主に家庭がらみの忙しさだったはずだ、とちょっと私生活を振り返っていた。


一つはPTA。

コロナの騒動が一息ついて、様々なイベントが復活して来たところである。

方針が決まり、新しくやって行こう、という所までが大体の流れであった。なんで踏襲を踏まないの!と周りがイライラするなか、手探りで復活を探る状態であった。

冥王星が山羊に戻ったあたりでOBや地域との連携がとられ、復活となっていく流れであった。


この冥王星の境目に太陽をもつ、娘の現象が印象的であった。クラスのディベートで発達障害のある彼女は論争に負けた事が受け入れられず、ストレス発散をしたところ、本人の気がつかないところで、同級生に迷惑がかかったようであった。

先生に諌められたものの、それに納得しなかった同級生に娘が一月に渡り付き纏われるという事があった。皮肉にも、冥王星が山羊に戻る手前で事態は収束した。


この辺りのことをきっかけに学校への行き渋りが増え、順行に戻る頃に不登校への決意が決まった。


水瓶に冥王星が抜けた今、山羊の娘と主人はなんだか楽しそうである。プレッシャーからの開放なのだろうか


(でも、娘よ。お前は将来をどうするか選択し、生き抜く努力は必要である)


水瓶冥王星のお試し期間として考えると、この辺りがヒントになるのだろうけれど…。


という事で今年の1月を振り返る。

世のニュースの方がよほど象徴的なのだけど、自分の心的風景を振り返りたい。


まず、山羊冥王星のラストスパートをかけるかのような、1/1の地震。1/2の飛行機の炎上。


あけましておめでとうと言いそびれて、今年はあけましておめでとうなんて空気じゃないねぇ、と周囲の挨拶はそこから始まった。


個人的にはちょっと浮上したかと思うと叩きつけられるような、ジェットコースターのような日々だったのだが、印象的なことをひとつ。


一つはとあるリバイバル映画を観たあと、痛く感動してその監督のネイタルを眺めていたら、水瓶要素というものが割と強く。

水瓶というのは、個人が消えても、その尽力した仕事が古びることなく残っていくのだな、と強く思った。


水瓶を天王星と読むより、土星がベースにあるのだ、と思う方が私はしっくり来ている。山羊が物質的な極みであるとしたら、水瓶は思考や情報のそれではないか?と思っている。

そもそも、そもそも、水瓶は不動宮。獅子の180である。頑固一徹だ。


理想主義的でありヒューマニストだが、それは体を超えたところが動かないからなのだ。


オノヨーコのエッセイの中に戦時中美しい空想で遊ぶ話が出てくるが、あれまた非常に水瓶っぽい。


水瓶はかすみを食べて生きているのかもしれない…

水瓶に関わらず、風のサインを持つ人達は考え方が軽やかで、とある美しさを持っている。


しかし、それは時にどうにもならない現実、つまり土のエレメントにぶつかってしまう事がある。


形を失っても、そこにまつわる情報がのこる。

しかし、それは、ある種の切なさや悲しさと共にある。

なんとなく、私がこれから迎える時代というのは、肉体や物理を超えて、データに変化していくような事なのだろうな、と思っている。