このブログは、「こんな風に書けるようになりたい」という文章を集めたメモとして使用したまま忘れていたけど、
ちゃんとブログとして再生させようと思う。

トモちゃんとのzine制作を前に、
自分の文章の体制を作るため。

職業的に文章を書いていたとはいえ、
仕事として重要視されていた媒体に合わせたノリや、表記統一の意識は、
ブログを続ける意味をちっとも後押ししてくれない。

(むしろ、そのラインで仕事しようとしていた、
わたしの意識に問題があるのだと思うけど)

カメラをデジタルからフィルムに変えたとき、
シャッター1つに被写体の重みを感じたように、
何が言いたくて書いてるのかを探る資料くらいになればいいな。

日々そんなにトピックがあるとは思えないけど、
これまでも気になったものをiphoneのメモ帳に書きとめ、
時間があるときに見直すなどの作業をしていたので、
それを文章に落とすくらいの気持ちでやろうと思う。

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今日は和歌山で震度5強の地震があった。

友人の実家は大丈夫だろうか。
あと、友人が梅酒のサイトに使うスチールを撮ってくれるカメラマンを探しており、
洋平さんの親しい方が引き受けてくれた。

タイミングの悪いことに、それはちょうど今日と明日の2日間だったはず。
和歌山に滞在し、梅農家と梅工場を撮影する予定だった。

「震度5」という数字に対して適切な反応が思い出せないけど、
とにかく無事でいてくれたらと思う。

学者の了見の狭さに憤慨するのはたやすいにしても

こうした諸説それぞれに一片の真実があるというのが、おそらく真相なのだろう。

破れた映画のポスターや卑猥なイタズラ書き、交通標識、不良の得意な落書きであふれた都市の景観以上に、
洞窟の絵画に近いものはまずあるまい。橋の下や地下鉄の構内など、洞窟に似た空間に落書きが多いのはなぜだろう。先史時代の絵の「傷痕」は、都会の拗ねた若者を公共物の破壊に駆り立てるのと同じ衝動から、つまり異なる種族の権力に逆らうための「呪術に変わる破壊行為」として、刻まれたのではないか。

後世の彫刻家は、大理石の淡い光陰の揺らぎから女の笑みを紡ぎだし、画家はまだらな色彩を鑑賞者の目の中で溶け合わせ、女神たちが、もし私たちと同じ空気を吸っていたなら、きっとこんな姿に違いないと思わせるイメージを描き出した。

モナリザが偉大になったのは、優れた芸術性のおかげではなく、レオナルドが意図し、学者たちが想像した意味をすっかり失ったからではないか。なぜなら傑作とは、見る側の人間が作者のことなどおかまいなしに、好き勝手に楽しめる文化の象徴なのだから。ふだんは美術館や学者たちのはりめぐらす堅苦しい解釈の檻に阻まれて作品に近づけない大衆が、めずらしくその柵を首尾よく乗り越えたとき初めて、傑作が生まれる。

カラヴァッジョほど暴力に親しんだ画家の手を借りないと、殉教者の運命を描いてキリスト教徒の涙を誘うこともおぼつかないとは、なんとも皮肉なことである。

ホラティウス兄弟の男らしい落ち着きには見向きもせず、またサビニの女たちよりはよほど冷静に、ドラクロワの「勝利の女神」は天性の、獰猛な、なだめようのない力を漲らせて民衆を導いていく。

スキャンダルが名声の露払いを務めるのは珍しくないが、近代美術では特にそれが目につく。

同じ画面に描かれた野良猫と、植民地出の若い黒人娘が、不遇な娼婦の身の上を代弁している。

人を悩ませ、混乱に陥れて初めて美術は偉大なのであり、美術は嘘をつけばつくほど、現実をより雄弁に語りうるということである。

しかし、嗜好は変わり、モネは充分に長生きしてその恩恵に浴した。

ゴッホの生涯は、ある個人の哀しい運命にとどまるものではなく、十九世紀ヨーロッパのブルジョワ階級全体がくぐりぬけた危機を、ひとりの人間の一生に凝縮した史劇のように思われる。







敵ながら天晴れ、とは思いましたが、標題の点で完全に物別れになってしまいました

いろいろなものがゴタゴタと見える状態、いろいろな思いがぶつかり合っている状態、それを昔の学者は混沌と名づけました。混沌は生命の泉です。すべての美しいものは、この生命に満ちた混沌の中から生まれてきます。
しかし、それが生まれるのには、私たちの精神が混沌に手を加えなければなりません。精神が混沌を組み伏せねばなりません。

自分の意見、自分の主観、自分の見方、それをどこまでも大切にしよう、というのが「思った通りに書きなさい」ということの眼目だったのではないでしょうか

百万言を費やしても、私たちは依然として文字という影のような世界にとどまっている

壮烈な、激烈な、猛烈な表現だけが空騒ぎしている

何とかして自分の気持ちを読者の心の底へ運び入れたい

言論の自由を錦の御旗にして

何かを書くというのは、命令で定められた狭い空間の中で踊るということ

表現の自由や巧拙の問題より前に、他人に伝達すべき重要な事柄を自分が持っているかどうか、という根本問題があるのです。それがあって初めて、文章の工夫というのも意味がある

締め切りおよび枚数という狭い土俵の上で相撲をとること、土俵が狭いことによって、技が磨かれるということがある

落語には、どこにも無駄がない

私が「それ」と訳せば、私ののがれた負担は、日本の読者が負うことになります

余計な冒険だと思いながら、私は「それ」の代わりに、恐る恐る、適当と思われる訳語を書くことにしています

どうしたら、せめて大意が活かせるのか

ヴィーゴの念頭にある真理というのは、法廷における真理。
街頭における真理、人生における真理なのです。純粋無垢の真理探究者だけの住む世界ではなく、感情、野心、利益などが渦巻いている世界、相手がいる、敵がいる世界、そういう世界における真理なのです

他人に理解される文章を書こうというのなら、日頃から沢山のトピカを用意しておいて、それらの間に連絡をつけておかねばならない

日本人たるもの、文章の簡潔という美徳を忘れてはならない

内容を離れた弁論の悲壮な一人歩き

話言葉は、言葉そのもののほかにたくさんの味方がいるものなのです。話す人の口調もそうです。表情もそうです。身振りもそうです。これらの味方は、四方八方から言葉を助けてくれます。補ってくれます。言葉そのものが不備でも、辻褄が合ってなくても済みますし、それに、相手が頷いてくれたり、「そうだ」と言ってくれさえすれば、もう説明や証明をする必要がなくなります。つまり、大変に不完全な言葉でも、それで立派に表現したような気分になれるのです。ところが同じ趣旨を文章として書こうとなるとどこを見回しても、一人の味方もいません。いるのは、言葉という頼りのないものだけで、それを使って、口調、表情、身振りの果たした役割まで演じ、丹念に説明や証明を行わねばなりません

四方八方に味方がいる場合の、言葉としては隙間だらけの調子がまた顔を出してくる

そうなれば、自然に、文章の濃淡が出てきます。抽象という、人間精神の一番大切な働きが自ずから目を覚まします。「飽きる」というのは、一般に、評判の悪い言葉ですが、飽きるところに成長の芽もあるのです

小高い地点に立った人間は、心に浮かぶものを文字によって固定させねばなりません。昔の哲学者は「意識の流れ」ということを申しました。それが実在ということかもしれません。