本来の自分に戻って魂を生きる -7ページ目

そのまま(ありのまま)の自分でいい、という言葉は、
とても安心感を与えるし、満たされた気持ちにもなる言葉だけど、
決して今のままでいいってわけではない。

もちろん今のままでいい人もいるけど、
そうでない人のほうが多いんじゃないかなぁ?

というのは、多くの人が本来の自分とは別の自分になろうとしているから。
ムリしている自分。
本来の自分から離れて特別な何かになろうとしている自分。
それが今の自分って人がほとんどだから、
「今の自分=ありのままの自分」ではなく、
「今の自分=ありのままではない自分」という場合が多い。

頑張らなくていいというのは、
別の何か(誰か)になろうとしなくていいってこと。
そういう努力は必要ないってこと。
だから、頑張ることをやめたからって本来の自分に戻れるわけではない。
本来の自分とはどういう自分なのかに気づかなければ、
努力や頑張りをやめたところで路頭に迷う。
最初は解放感から自由を味わえても、
本来の自分に気づいていないのだから、しばらくすれば、また別の自分を生きてしまう。

自分の好きなことをやっているようでも、本来の自分から離れている人も多い。
それほど、本来の自分が分からない人が多い。
そうなる理由は一つじゃないけれど、
人が持つ承認欲求がそうさせていたりもする。

自分の中の満たされない思いが外に向かって「認めてもらいたい」になり、
認めてもらうには特別な何かにならなければと思ったりする。
憧れの誰かのように、人よりも優れている自分、周りに一目置かれる自分、
そうなるためにそれらを演じて、本来の自分とは違う者になろうとする。

また、被害者意識や犠牲者意識を使って、周囲の同情を買うことで注目を浴びようとしたり、
報われない自分や頑張っている自分を見せることで他者からの共感や理解を得ようともする。

いずれにしても認められたいためのアピール&相手に依存しているわけで、
こういうのって、意外に自分では気づけなかったりする。
なぜなら、これらの行為で周りが自分を認めてくれた場合(と言っても自分の無意識が
そうなることを求めて認めてもらえるように周到に演出しているわけですが)、
自身の承認欲求が満たされていることを、魂レベルの喜びや幸福感だと錯覚してしまうから。

本来の自分は、もっとシンプルだったりする。
他者に認められても、そこまでの高揚感はなかったりする。
そもそも、認められたいという欲求から何かをするわけではないし、
特別な何かをしようとしなくても、すでに特別なことが出来ていたりする。
ただ、そういう自分って、自分にとっては当たり前だから、
そんなにワクワクしないし、魅力も感じない。
だから、余計に別の何かになろうとしてしまう。
本当は充分に魅力的なのに、外に刺激を求めたり、依存的な承認を必要としたり、
人と比べてばかりいるから、自分の魅力に気づけない。

誰かに認められることで満たされようとする自分から、
すでに満たされている本来の自分に方向転換することが大切だと思う。
そのためには、本来の自分とはどういう自分なのかに気づく必要があるし、
これって、本当の意味で自分の無意識に触れていかなければ気づけなかったりする。

「変わる」というのは、今の自分から、本来の自分に戻ること。
ありのままの自分、そのままの自分に気づくこと。
決して別の何かに変わるわけではない。
今の自分こそが、別の何かなのだから。







⦿闇と光を統合することはできない
⦿闇を光に変えることはできない
⦿闇は消えることしかできない


このような考えは、
闇=幻想
光=真実

という思想が根底にあるからだと以前の記事にも書きました。そのため、

この世界での真実は光だけ。
闇は幻想だから消えるもの。
だから闇と光は一つになれない。
闇は消えて、光だけが残る。
なぜなら光こそが真実だから。
闇が消えた時、真実である光がより輝ける。

と思っているのですが、

これって人の世界に置き換えると分かりやすくて、
紫色の文字で書かれた文章を、光→白人、闇→黒人、にすれば…

肌の色が違っていても、どちらも同じ人間であるように、
光が真実なら闇も真実だし、闇が幻想なら光も幻想。なのに、
片方は本物(在るもの)だけど、もう片方はニセモノ(無いもの)だと ジャッジ して
ニセモノはこの世から消えることが正解だと思っている。

この思想って自分を嫌っている人ほどハマってしまうように思います。
自分を嫌っている場合、多くは罪悪感を強く持っているので、
その罪悪感は幻想だからニセモノなんだよ、本来は無いものなんだよと教えられると、
罪悪感から逃れたい、罪悪感を消したい、と思っていた無意識の願いが
叶えられたように思えて、救われた気持ちになるので
※ちなみに罪悪感も愛も同じだから罪悪感が「無」なら愛も「無」なので、
 罪悪感を消すことは愛を消すことにもなります。

結局この思想って、この世の全てを受け入れていないってことなので、
いくら、闇は悪者じゃない、闇に気づくことが受け入れていることになる、
と綺麗ごとを言っていても、
闇が存在することは正しくない、消えて無くなることが正解だと思っている以上は、
気づこうが気づくまいが、受け入れているとは言えないわけですね。

このような思想が根底にあると、
自分にとって都合の良いものだけを認めて、都合の悪いものは排除する、
ということが無意識に起こってしまう。と以前から何度も書いていますが、
たとえばこういうことです。

「すべてが許されていることを思い出すためのヒーリング」として、
自分の感情や想いをありのまま表現していいという場(掲示板)が設けられ、
参加者はその掲示板を使用することができるのだけれど、参加者全員に、

⦿反論しない
⦿アドバイスしない
⦿教えを垂れない


という3つのルールがあるとしたら?
これは、他者の表現に対して、
反論は許さない、アドバイスも許さない、教えを垂れることも許さない、
ということでもあるので、もうこの時点で、

全てが許されていない わけです。

たとえそのヒーリングの考案者が、
「すべてが許される場所で気持ちを表現することが、そのまま癒しになる」
「怒っていること、モヤモヤしていること、何を書いてもなんでも大丈夫」
「表現することに意味があります」
「あなたにはあなただけの癒しがある。メンバーはあなただけの癒しを尊重します」
「どんな気持ちも表現することを自分に許す」

と、とても優しげで寛大な宣伝をしていても、

その中の誰かの表現でモヤモヤしたとしたら?なぜか怒りを感じたなら?
モヤモヤや怒りじゃなくても、疑問に思うことや、違う意見が自分の中にあったとしたら?
それらに関する表現は許されていないのだから、
やはり全てが許されているわけではないし、何でも大丈夫ってわけではない。
そうなるともちろん、どんな自分の気持ちも許していることにはならないし、
自分の癒しを尊重されているわけでもない。

つまり、謳い文句とは違うわけです。
結局このルールは、この考案者が、反論やアドバイス、教えを垂れることを、
いけないことジャッジ している。ということと、

考案者自身が、誰の反論も、アドバイスも、教えも受けたくない、と思っているから、
このように考案者にとって都合の悪いものを排除する結果となったんですね。

なのでいくら参加者に、
「全ての参加者が対等な関係です」
「この3つのルールがあるので、何を話しても否定されることがありません」
「安心して本音を語ることができます。愛と受容の心で語り合いましょう」

と耳触りのいいことを言っていても、
反論やアドバイス、教えを垂れることを否定と捉えて、
それらを禁じている(排除している)時点で、全てを許していないし、
もはやこの考案者自身が、
何が「本音」なのか、「愛と受容」とはどういうものなのか、
「対等」とは何か、「許す」とは何か、というのを、あまり理解していない
と言える。

そんな中で、もしそのヒーリングの考案者が自身のことを、
「心理学、スピリチュアル、悟りを学び、○○カウンセラー養成講座を修了した」
と紹介すればどうだろう?
心のことや見えない世界についてあまり知らない参加者は、
尚更こういったルールが正しいかのように勘違いしてしまうだろうし、
ルールを守れない感情を持ってしまう自分に対し、
癒しどころか、それこそ罪悪感に苦しむ結果になってしまうかもしれない。

そしてまた、この3つのルールが、
自身の中に存在する最良の講師に従うことが大切だから、
誰かの意見や考えに従う必要は一切ありません とのことで作られたなら?
これもまた自分にとってかなり都合のいい解釈だと言えるし、

もしその最良の講師が、
反論することやアドバイスすること、教えを垂れることを勧めたらどうするのだろう?
そうなると、ルールにも従わなくていいとなる。

このように、私も以前学ぶことになった思想は、
全ては愛だのワンネスだの、全ては許されているだのと言っていても、
この世の全てを認めていない思想だから、都合の悪いものに関しては、

「本来は存在しないものだから」と排除することが当たり前になっているし、

当たり前になりすぎてその矛盾にすら気づけないのか、

いつもながら、いろんな意味で言行が一致しない結果になるわけです(@_@)








ブログって特定の個人に向けて書いてる人っているのだろうか?
ということを思いました笑
中にはそういう人もいるかもしれないけど、
むしろそういう人って少ないんじゃないかなぁ?



多くの人が、主に自分の感じたことや気づいたこと、体験したこと、思っていること、
学んだ知識や情報なんかを、ご訪問してくださる方々に向けて発信していると思います。

私も例に漏れずそのタイプで、
日々の気づきや感じたことなどを、
読んでくださっている方々に向けて書かせていただいてますし、
時には誰かの記事や他者の言葉に対して感じたことも、率直に書いています。

私が書いた記事に対して、別の見解を持たれる方は、
ご自身の信じる見解を書いていらっしゃるし、
私もまた、そういう方とは違った私の気づきや見解を書いたりもしています。

これって別に、誰か個人に向けて書いてるわけでもないし、
ましてや誰かへの攻撃でも、誰かを変えようとしているわけでもない。
人と違う意見を発することを攻撃と直結させるのは、
ちょっと違うのでは?と思います。

以前の記事にも書きましたが、誰が何を信じようと自由だし、
私は私の体験したことや気づいたことから、
矛盾に感じることや、本質からブレていると感じることなどを、
出来るだけ「なぜそう思うか」の理由も交えて発信しているまでで、
それを読んで何を感じ、どのように思うかは、
当然ながら読んでくださった方々それぞれで違うので、
個々で自由な見解を持たれることが普通だと思っています。

ブログって、そういうものなんじゃないのかなぁ?

自分の記事で誰かを変えようなんて普通は思わないし(むしろそんなことできないし)
もし仮に、誰かを変えようと思っているなら、ブログに書くなんて回りくどいことしないで、
その方ご本人に直接メッセージを送りますよね^^

誰かと違う意見を発することが、
攻撃だとか人を変えようとしていることになるのなら、
この世界は成長も進歩もしなくなる。

綺麗ごとは許されても、その裏側にあるものを表に出すことは許されないなら、
都合の悪いことを報道しないマスコミの操作と同じこと。

表面だけにとらわれないで、
視野を広げて物事の本質を見ることって大切だなって改めて思いましたキラキラ☆




前回の記事を、
お馴染み♡徳永順子さんが紹介してくださいました^^
その記事はこちら→キラキラ☆その結果、の言葉。キラキラ☆

で、今度はそのあとの順ちゃんの記事に、私が激しく賛同

ぜひ読んでみてください→キラキラ☆【理由】なぜセッションを休止したのか?キラキラ☆





順ちゃんが言うように、
人って自分の気持ちに気づいていないことが多いので、
口から出る言葉が必ずしも真実ってわけではないんですよね。

だからこそ、潜在意識をリーディングするセッションが多いわけで。

誤解されている方もいらっしゃるようですが、
ブロック解除などでは、潜在意識を見ていくので、
本人も気づいていない無意識の領域をセラピストが見させていただいてます。
決して友人のお悩みの聞き役に徹するかのような、
頭で聞いて、頭で処理しているわけではありません

なので、思考を書き換えているわけではないんですね。

また、よく聞く言葉に、
変わらなくていい
変わろうとすることは今の自分を否定することだ
そのことに気づいていない人が多い

というのがあって、

このように言われると、なるほど!と思ったりするかもしれませんが、
変わろうとすること自体には何の問題もないんですよね。

変わろうとすることに問題があるのではなく、
もし自分を否定しているなら、否定していることが問題

そしてこれもまた、「今の自分が嫌いだから」と本人は思っていても、
実際はそうじゃない場合がある。

潜在意識に触れてみると、
「自分が大切だから、自分のためにもっと可能性を広げたい
と思っていたりします。

もちろんその逆もあって、「可能性を広げたい」と本人は思っていても、
潜在意識では今の自分を否定している場合もあるし。

いずれにしても、変に「変わらなくていい」を信じると、
それがまた余計な観念になってしまうので、
「変わろうとすること=今の自分を否定すること」と決めつけて
「変わらなくていい」「変わろうとすることには意味がない」とするのではなく、
真実に気づくためにも、その本質を見ていくことが大切だと思いますスマイル







ブロック解除などでは「書き換える」「入れ替える」という言葉が使われますが、
なぜかその言葉に敏感に反応される方もいるようで、
以前は過去生などについても、
過去なんてない、人はそんなものに影響なんてされていない、と言ってみたり、
心のエラー(思い込みや誤解)なんて、そんなものはそもそもない、と言ってみたり。

で、誰の言葉かは不明ですが、

「闇と光を統合することはできない。
闇と光がくっついたものを見た者はいない。
闇を光に変えることはできない。
闇が光に変わるのを見た者はいない。
・・・・・・・」

とのことで、「見た者はいない」を根拠に、
「統合することはできない」「変えることはできない」と主張されたいようなのですが、
これを読んだ時点で思いました。

見た者がいないから統合することはできない
見た者がいないから変えることはできないって、おかしくない?って笑

じゃあ、統合できないのを見た者はいるの? 変わらないのを見た者はいるの?ってなるし、

そもそも文明がここまで発達する前、
地球が丸いことを見た者はいるの?
地球が回っているところを見た者はいるの?

見た者はいなくても、当時から地球は丸いし、回っている。
空気もそう。紫外線もそう。
見た者はいなくても、それらは在る。

で、そのあとには「闇は消えることしかできない」と断言されているのですが、
当然、その根拠は? ってなるし、先ほどの根拠を使えば、

闇を変えることはできない=見た者がいないから
闇は消えることしかできない=見た者がいるから ってこと? 

これを真理や悟りと言えるのだろうか( ̄_ ̄ i)

目に見えない世界が語られているはずのスピリチュアルで、
見た者がいないから変わらない、ってどういうこっちゃ?

なぜこんなに都合のいい解釈になるのかというと、
前回の記事⇒「光も闇も等しく無常」にも書きましたが、
「光は本物、闇はニセモノ」
「愛は本物、苦はニセモノ」
という思想がそうさせてしまってるんですね。

私もその思想を学んだ時期がありました(^^ゞ

この思想が根底にあると、どうしても都合の悪いものは排除しようとしてしまう。
当然ですよね。
愛だけが在るもの(真実・本物・真我)で、
苦は本来無いもの(幻想・ニセモノ・自我)だと信じているんですから。

だから、「本来は存在しないニセモノの闇が、本物の光に変われるはずがないし、
ましてやニセモノが本物と統合できるはずもない、
ニセモノは所詮幻想だから、気づかれた時にただ消えるだけ」
ということを言いたいのだと思いますが(もちろんこれも本質からかけ離れた勝手な解釈)、
それがジャッジと指摘されないよう「見た者はいないから」という言葉が都合よく使われた?

神の愛は見た者がいるから在る(本物)
苦しみは見た者がいないから無い(ニセモノ)
とでも言うのだろうか?

善悪はない、ジャッジはしない、比較はしない、全ては愛、全てが許されている、ワンネス
と言いながら、こういった本物とニセモノの区別(差別)が生まれるのはなぜ?
と思わざるを得ないし、全てが許されているなら、なぜ消える必要があるのだろう?

本質に気づけない限り、言行が一致しないのは当然のことで、
もはや一切考えないから、気づくことができないのだろうか?
全ては愛だの調和だのと言っていても、認めているのは自分が愛と信じるものだけ。
思考も肉体も感情も、自己の尺度でニセモノの区分に入ると、
すぐさま切り捨ての対象になるし、それらが一段落したら、
今度は過去や時間などがその対象になるし、とにかく何かを排除するパターンは止まらない。

誰が何を信じようとそれは自由。
でもそれを、全覚醒者の言葉、悟りや覚醒への道、悟りを学んだ、として広めるとなると…

こちらの記事⇒「優しさとは」の後半で、
仏陀の教団にいた修行者の言葉を載せましたが、実際に拝見した文章はこうです。

いったい誰が無知な者に「水浴びで罪業から自由になる」
などということを吹き込んだのですか?
もしそれが正しいならば、亀やカエルも罪業を逃れるでしょうに。