それは思い込みだから真実ではないんだけど、
心の奥では真実だと思っているんですね。
いったい自分は何を真実だと思っているのか、心の奥では何を信じているのか、
そのことを知ることはとても大切なんだけど、
私たちは無意識にそこを知ることを怖れています。
その怖れが、「思い込みだから」「真実ではないから」「幻想だから」と、
それらを「ないもの」として扱おうとしてしまいます。
ないものとしてしまうと楽なんですね。
知らなくて済むから。
見なくて済むから。
そして、その「楽」という心地よさを、「気づき」と錯覚してしまったり(経験済み
)怖れが優位になっている場合、柔軟になれません。
怖れが優位になっている場合、持論を曲げません(視野を広げたくないから)。
そのほうが「楽」なんですね。
怖れによって居心地のよい「楽」なところに落ち着こうとします。
そして、ベースとなっているその怖れをも「ないもの」としてしまいます。
※ここで伝えている怖れは顕在意識で自覚できる怖れではなく無意識での怖れ。
「真理はいたってシンプル」だと言われていますが、
その前にいろんなことが絡まりあって、
その先にシンプルという答えがあるということを意識しないと、
これもまた怖れによって、
その絡まりを「ないもの」として見ないようにしてしまうんですね。
エゴは複雑で難しいことのほうが価値があるように思わせているけど、
その逆もまたしかりで、「真実はシンプルだから」「幻想だから」と、
見たくないものから目を背けようともしている。
見たくないものは無理に見なくてもいいし、
疲れたなら休んでもいいし、
居心地がよいならそこにいても全然OK

ただ、その先に行きたいと思ったときは、やっぱりそこを避けてはいられないってこと。
今私の周りに、お金(物質)を求める人と、悟り(精神)を求めている人とがいるんだけど、
悟りを求めている人は物質やお金を求めている人のことを
「意味がない」「愚か」だと思っているんですね(本人は自覚してないかもしれませんが)。
でも、俯瞰して見ると、お金を求めている人も悟りを求めている人も、
どちらも「怖れ」からそれらを求めていることが伝わります。
つまり、どっちも同じなんですよね。
あの人のように成功者になりたい。
あの人のように覚醒者になりたい
成功や覚醒というよりも「成功者」「覚醒者」になりたいという心理。
その「憧れ」の裏には
どちらも「焦り」があり「妬み」があり「承認欲求」があり「怖れ」がある。
そしてどちらも、お金の専門家だから、覚醒者だから、という肩書(?)で、
そのほかのことは疑ってもその人たちのことは疑わない。
そしてどちらも、怖れているからこそ自分の正当性を一生懸命にアピールする。
決してそれらが悪いと言っているのではなく、
そのことに気づくことが大切なんじゃないかな、と自分に置き換えてそう感じています。
怖れにしろ思い込みにしろ「ないもの」として扱いたい気持ちはわかります。
私がまさにそうでしたから

特に心と向き合うことに疲れてきたころ「怖れ」が優位になって
「そんなものはない」と楽な方に引っ張られます。
楽だからこそ、心地よいからこそ、怖れているからこそ、そこから動きたくないんですよね。
思考や顕在意識で「ないもの」「幻想」と処理しようとしてしまって

でもそれは、心と向き合う方法が違っていただけ

なんだかんだ言っても潜在意識には「あるもの」として記憶されているから
こうして肉体を持っているんじゃないかな~^^
だからこそ、自分が何を「ある」としているのか、
気づいていない無意識の領域を知ることは、やっぱり必要なのではないでしょうか。
なぜなら、「ないもの」と否定しているそれこそが「愛」だったりするんですから















