You'll See the Sun AGAIN. -2ページ目

矛盾か偽善か。

―動物たちが皆幸せに暮らせるような、
そんな楽園のような動物園を創りたい―

みたいなことを語る人の気持ちについて考えてみた。

死ぬまで動物園に住まうこと。
これは、野生動物たちにとって喜ばしいことか?
天敵から保護され、定期的な食事が保障される。
こうした意味においてはそうかもしれない。

しかし、動物園という囲いによって、
奪われ遠ざけられているものは少なくない。
一括りにするなら、それは、広義における「自由」。

本来の居場所であるところの自然界は、
それぞれが死の危険と背中合わせでありながらも、
生を生きる自由を与えてくれる。

動物に人間相当の意思があるかどうか、
あるいは、
動物に人間と同様の権利を認めるかどうか等
アニマル・ライツ系の議論を避けるとしても、
とりあえず彼らに(それこそ自然権的な意味での)
自己決定権を保障すること、
これを「悪」と裁断することは、
倫理的な思考においては無理があると思われる。

さて、本題に戻る。
どのような場合、上の命題は正統性を確保できるのか?

功利主義的な論理に基づいて考えるならば、
上のようなことを言う人には、動物園に住まう動物たちに対し、
不幸を上回るだけの幸福を提供できるという根拠が必要だと思う。

しかし、不幸や幸福の量を数値化したり、
可視化したりするには、まずどうすればいいのだろう?
この問題をクリアできない限り、
たとえ、真理が「動物園=正義」なのだとしても、
これを「はい、そうですか」とすんなり認めるわけにはいかない。

やはり、研究・保存・展示目的と称して、
動物を本来の居場所から引き離すという行為、
そもそもの事の始まりについて是非が問われるべきだろう。
この段階にまで遡って考えるならば、
つまるところ、

・人間の人間社会における利益追求
・(非人間としての)動物の自然権的自由の確保

どちらを優先させるか、これが正義の後見人となるはずである。

したがって、どちらが大切か安易に結論するべきではない。
またもや壁である。

いちおう、現時点での結論を以下にまとめる。

動物に対して、彼らの不幸を上回るだけの幸福を
提供できるという根拠のない人は、
それがどんなに美しく思えるのだとしても、
ゼロから「動物園を創りたい」などと言うべきではないと思う。
そうした意欲は、無責任な正義感以上の何物でもないはずだ。

また、動物園を必要(悪)といったん認める立場から、
動物にとって理想的な動物園を創りたいという希望であれば、
より現実主義的な正しさを帯びて、少しはマシに聴こえる。
(「新たに」創るというよりは、「いまある」ものをよりよくする、
という選択肢の方が賢明だと思う)
そして、あれこれの工夫を重ねて、幸福量の増大を目指す。

しかし、幸福量が眼に見えない個別的なものである以上、
いつまで経ってもゴールには決して辿り着けない。
まさに荊の道である。

わたしは、どちらかというと、後者よりの考えである。

これまで述べてきたように、わたしが動物園を創るとして、
彼らの救世主になれるとはまったく思えない。
かといって、人間の創造物である動物園の正統性をも、
完全否定するには、何となく躊躇いがある。
だから、差し当たっては、
現状・現場の改善に精進している人たちに共感を覚える。

最大の問題は、動物園をめぐる正統性や、
それからそこに住まう動物たちについての議論が、
まだまだ大衆的な関心事になっていないことだと思う。

動物園が「ある」から、そこへ動物を見に出かける人々。
コンビニやスーパーでポテトチップスが売ってるから、
とりあえず買って食べるのと同じように。

あるいは、「ある」ことすら意識できずに、
ひたすら別の世界を暮らしている人も相当いるはず。

消えかけて、剥げ落ちて、見えにくくなっている輪郭。
そこに目立つ色を日々塗り続けていくこと。

動物園に限らず、この類の問題にはいつも考えさせられる。

二者択一。

余計なことを考える暇がないくらいに
昼夜問わず労働に明け暮れるのと

考える時間がありすぎるがために
人一倍余計な悩みを抱えてしまうのと

いまのわたしに向いているのはどちらだろう?

どちらが答えであっても
本当は幸せなことなのかもしれない。

スタート。

ブログみたいなものはというと、
何気にこれが3つめだったりします。

なぜかさいきんになって、
ちょっとした気づきのメモや
そこそこまじめなエッセイを
書き溜めておくスペースが特に必要かも?
みたいには感じ始めていたので
新ブログを始めてみようと思ったのでした。

これを契機に長すぎる五月病から脱出できればいいんだけど。
果たしてどうなることやら。
いつまで続くことやら。

過去のエッセイの抜粋&貼り付け完了(30 May 2007 10:47)

定番。

部屋の中で

我が物顔で飛び交う

蝿を追い出そうとして

窓を全開にしてみる





いつの間にか2匹で仲良く飛んでたりする



早い話

人生の大部分って

こんな感じで

やるせないような

取るに足りないような

足跡すら残さないような

出来事の積み重ねで

成り立ってるんだと思う



ああ

それにしても

五月蝿い

心理てすと(らしい)。

次の4つの言葉をつかって文章をつくってくださいっ☆
(どんな文章でもOKです!かならず4つの言葉はいれて下さいねっ♪)

『私』
『鍵』
『うさぎ』
『橋』



・・・だそうです。

この手の想像力を要する課題には昔から滅法弱い性質なのですが
今日はめずらしくちょっとした閃きがあったので、
やっつけ仕事で書いてみました。
切羽詰った2人によるダイアログ形式です。





「ねぇ、テレビ、見て見て。逆立ちする馬だって!
うわぁ、本当にしてる!すごいよ、すごいよ!ねぇ、聞いてる?」

「うん・・・」

「まったくもう。いつもつまらないんだから。
少しくらいは興味もってくれたっていいのに。
・・・それに、いつまでも考えてたって仕方ないでしょ?」

「・・・」

「まだ、痛むの?」

「いや。もう大丈夫。何ともない。ただ・・・」

「ただ・・・?」

「私たち、どうしてこんなことになっちゃったんだろうって。
また、ぼんやり思ってた」

「その話はもうやめて!聞きたくない。
とにかく言われたとおりにするしかないんだから!」

「指定された場所には、私ひとりで行くよ」

「どうしてあなたはいつもひとりで決めちゃうの?
そういうところ昔から全然変わらないよね」

「いいから、人の話最後まで聞いてよ。
いい?私はコイン1枚たりとも奴らに渡すつもりはないよ。
全財産はあの子に残してあげるんだって、二人で決めたじゃない」

「身代金を渡さないって・・・あなたどういう神経してるの?
私たちのリリーの命が架かってるのよ!」

「お金は渡さない。でも、リリアンは取り返す。
私たちになら、それができるかもしれない」

「・・・何か考えでもあるの?」

「今それを言おうとしていたんだ。いい?
私が奴らと接触することになるあの橋。
見たところ、この部屋の窓からでも隅々まで一望できる感じだよ。
橋の中央までせいぜい250mといったところかな。
あなたのその腕を持ってすれば、
99パーセントの確率で狙撃は成功するはず」

「つまり・・・1人でも2人でも・・・みんな殺ってしまえと言うのね?」

「あなたは、私が合図を送るまで、
ただ双眼鏡で一部始終を見ているだけでいいのよ。
私は、何があっても、先に取引には応じない。
リリーが監禁されているロッカーの番号。
それに、鍵の受け取りが絶対先だから。
受け取りが無事完了したら、そっちにいつもの合図を送るわ。
そうしたら、あなたの出番ってわけ」

「うまくいくかなぁ・・・」

「うん、間違いなくね。
まさか、たかが1羽のうさぎのために命を狙われているなんて、
さすがの誘拐犯たちだって、夢にも思わないでしょう?」

それでもどこかで。

なんだかんだで、こだわってるからこそ、
前回は日記のネタにしてしまったバスの運転手の敬礼のシーン。
乗り物の運転手の観察は面白いと認めざるをえないのかもしれません。


で、なぜ敢えてそれを人間のドラマと呼びたいのか。


2つの車両がすれ違うとき、
両者間の敬礼の仕草の機微を念入りに見ることで、
ふだん彼らがどんな人間関係なのか、
少しだけ想像できそうな気分になるから。


たとえば、いかにも入社したてな感じの若造と、
軽く勤続30年を超えていそうなベテランな感じのおっさんとの間では
どういう空気が流れるのか。
一瞬だけでもいちおうは視線を合わせようとしているのか。


運転手が女性の場合はどうなのか。


片側3車線以上の大通りで、すれ違う両車両の間隔が
見るからに大きいときには、さてどうする?


両側とも渋滞のときとかに、出遭ってしまって
なかなかすれ違えないときは、やっぱり気まずいものなの?


みたいなことを考えながら、今日もバスに乗ります。
がたんごとん。

こだわりはないけど。

路線バスが対向車線を走行中の同社経営の車両とすれ違うときに
運転手同士が合図をする光景ってあるじゃないですか?

なぜかあれを観察するのが密かな楽しみだったりします。

ただで鑑賞出来るちょっとした人間のドラマ。

プチ倫理。

さて、問題です。



そこそこ混雑しているバスや電車の車内にて。

あなたが座っている目の前に

しかるべき乗客(年寄り、障害者、妊娠中/子連れの女性etc.)が

やってきたとする。



で、もし仮に、

実はその人がキセル乗車だということが事前にわかったとしたら、

あなたは座席を譲りますか?



これでも充分、高校の卒業試験か、大学の一般教養レベルの試験か、
あるいはそれ以上の奥深い問題になりそうじゃない???

むかしばなし。

いまから6年前の秋から冬にかけてのこと。
わたしはある人に片思いをしていた。
じぶんの誕生日。
その人に会って思いを打ち明けた。
そして翌日。
丁重に断られた。
2001年1月1日。
新しい世紀の始まり。
わたしはひとりで世界の終わりを噛み締めていた。
もう全て終わったと。

6年前のわたしにとって、
じぶんがフラレタという事実、それが全てだった。
自分のひたむきさと惨めさを相手に訴え続けた。
でも聞き入れられることはなかった。
そして自力ではどうすることもできない現実を恨んだ。

だけど、最近思う。
誕生日にわざわざ時間作って会いにきてくれた彼女。
そして敢えて翌日に返事をくれた彼女。
これって
わたしのことを、
わたしの誕生日を、
大切に思いやってくれていた証拠なのではないかと。
もちろんいまさら確かめようのないことだけれども。

「2年後のあなたを見てみたい」
最後にそう言って、彼女はわたしの前から去っていった。

まもなく27歳になろうとしている自分は、
すでにあの頃の彼女より年上になってしまった。
わたしは少しは追いつけただろうか。
少しは憧れの大人のイメージに近づけただろうか。

この出来事が、わたしの人生のテーマのひとつ、
「カッコよさとは何か」を追求し始めるそもそものきっかけになった。

何を書けばいいのやら。

季節外れのテントウムシを窓から逃がした。
人間の世界から、彼〈本来〉の居場所へ―。
しかし、〈逃がした〉というのはわたしの側の都合。
急転直下冬の世界へと放り出された虫の側からすれば、
これは〈追放〉そのものではないか?

わたしが「人間の世界」と呼んだアパートという空間自体
人間のルールでもってそういう線引きがなされているだけである。
しかし、そこで生存していた虫にとってみれば
わたしのアパートは本来の〈居場所〉の延長線上にいたにすぎない。

棲み分けは容易なようで難しい。
人間と虫の間には交渉の機会もツールもない。
虫は人間にわかる〈声〉を持たない。
したがって人間が何らかの論理やら理屈を持ち出した時点で、
それが全てになってしまう。

何を言おうが書こうが全てわたしの側の都合になる。

虫の〈声〉は届かなかった。
虫なんかと出会わなければ良かった。

〈本当〉っぽく言えるのは、たったのこれだけ。
自分の限界なんてあっさりしている。