裁判員裁判 | 辯護士の独り言

辯護士の独り言

思いつくまま、感じたままに、、、

裁判員、死刑適用せず=耳かき店員殺害で無期懲役-東京地裁


「公正に判断」「頭悩ませた」=負担感も、判決に納得-初の死刑求刑事件で裁判員


裁判員裁判に関するニュースを見るたびに、違和感を感じる。


裁判員制度は、一般人の社会経験の場ではない。


死刑判決を検討するにあたって、苦しんだとかコメントが出ているが、重い職責を担わされているのだから、当たり前のことである。


死刑判決ではないからといって、軽い気持ちで判断すべきものではないし、死刑判決を検討する事案だから大変なのではない。


裁判員として判断した人が裁判後にマスコミのインタビューに応じているのも、本来許されるべきことではない。


裁判員は守秘義務を負っている以上、事件に関すること、検討内容、意見、感想・苦悩等も含めた判断過程に関することを、軽々に公にして良いものではない。


裁判員の感想として、「当初は身勝手なことを言っていたが、遺族や検察官の話を聞くうちにだんだん変わっていった」、「判決ではかすかにうなずいていた。内省が深まっていったのではないか」ということが述べられているが、今後、本件の被告人のように法廷で反省の態度を示せば、死刑はなくなるとの印象を与えかねない。


他の事件で、「自分は心から反省しているにもかかわらず、なぜ死刑なんだ。」と言われてしまった場合、どうするのでしょうか。


あれはあれ、これはこれ、という回答では、恣意的判断以外の何物でもない。


自分は他の事件についてまで担当しているのではないから、知ったことではないという態度では、裁判員として失格。


判決というものは、他の事件への影響も考慮し、裁判制度全体として整合性を保たせることができるようにするという前提の下での、個別案件についての判断であり、裁判の公正・公平というのは、個々の裁判における判断についてのみ要求されるものではなく、裁判制度全体として、公正性・公平性を保っていなければならない。


裁判員となった人は、自分が担当した裁判が終わったら、それでおしまいというわけではない。自分が担当した裁判に関連して裁判の公平・公正が害されないよう務めなければならない。


数年前、司法修習生が修習中に担当した事件についてブログで記事を書いたところ、守秘義務違反として問題となったことがあったように思う。


司法修習生がブログで記事にすることと、裁判員が事件終了後にマスコミのインタビューに応じて事件の判断過程における事情をベラベラと話すことと、何ら異ならないはずである。


裁判員となった人は、担当事件の終了後も身を慎むべきである。



なお、「極刑に値するほど悪質とは言えない」との判断についても、良くわからない。。


そもそも、裁判員制度は、裁判官による専門的判断のみによる判決を「悪」として、一般人の常識的感覚に基づく裁判の実現を目指したものだったように思う。


一般人の常識的感覚からすれば、恋愛感情が否定されて、逆恨みし、衝動的にではなく、計画的に、2名も殺害した事案は、「極刑に値するほど悪質である」と判断されるはずであると思うが、判決からは、何故、一般人の常識的感覚からして「極刑に値するほど悪質ではない」という判断になるのかについて、常識的な納得感は得られないように思う。


結局、多くの一般人の常識的感覚と異なる内容の判決がなされ、その理由もいまいち納得のいくものではないものであるのだとすれば(現に、遺族は法廷で納得がいかないと抗議している。)、裁判員裁判を敢えて行う必要は全くないではないかと思わざるを得ない。


その場その場での感覚的判断(一過性の感情的判断)となり、恣意的判断の危険を孕んでいることを考えれば、裁判員制度は、百害あって一利なしということになるのではないか。