久々にinnocenceを見ました。

すばらしいアニメーションだ。

演出、作画、CGとの融合、全てが押井守によって一体性をもって同じ方向をむいている。

思想の面でも、言葉を随所にちりばめることで映画全体の空気を演出している。

でも

やっぱりアニメーションの限界として、質感が無い。匂いがない。

「本質」はすべてそこに依拠するものだと思う。

質感と匂い。これらを伝えるアニメをぼくは見たことが無い。

映画が「思い出」だとしたら、アニメは「思い出のアルバム」に過ぎない。

それだから、押井監督のように映画から学んでアニメを作ろうとする人の作品を見るとき、僕らが客観的に措定されてしまう。

「僕ら」とは大げさに何かを批判して大げさに何かを期待する人々。

「僕ら」を動かすには、TV版エヴァンゲリヲンのように「おめでとう」と言って突き放すしかないいんだ。

「リアル」を追求するアニメーターがいる。

でもやっぱりそのリアルは、僕らに直面する危機に少しも届いていない。

ビューティフルドリーマーで、押井監督は僕らの姿を浮き彫りにしようとしたが、それは全くもって見当違いだった。

僕らは、押井監督がいると思っている場所にはいない。深く映像の中に沈んでいる。押井守の演出は邪魔だとさえ思えた。

そして一番の間違いが、「僕ら」は真実のために戦おうとしないということを、監督がわかっていないことだった。

「僕ら」は卑しく、真実から眼を背け、与えられるものを批判し、人生という三分間を待つだけの、インスタントな存在にすぎない。

どうしてそこに質感が必要だろうか?匂いが必要だろうか?

アニメーターが本物を欲しがってはいけない、と僕は思う。