状況を判断しかねて凍結したクリハの意識は、深い森のような暖かい緑に包まれて揺られるうちに、ゆっくりと溶け出した。

やがて、緑の暖かさが人肌に抱き包まれている故の温かさなのだと思い至り、途端にどっと押し寄せた回想に息が詰まった。
「……っ、……。」
身じろぎしたクリハに気付いたのか、それともただ単にずり落ちそうになった荷物を持ち直すようなつもりだったのか。
布にくるむようにして抱えられた体が、強く支え直される。それに伴い頭に掛かっていた深緑がはらりと落ちた。
視界が拓けてようやく、クリハはそこが馬上の、さらに逞しい両腕の隙間であることに気付いた。 見上げれば顔はまだ幼さを残した青年は、目が合うと狼のように粗野な笑みを浮かべて見せた。
「気が付いたのか?」
その左腰には、先程まで漆黒の男に突きつけていたごてごての大剣。
じゃらん。
飾りが揺られて音を発てる。
速すぎる彼等の動きは、混乱したクリハには殆ど分からなかったけれど。
断片的な記憶と今の状況から察するに、唐突にクリハの背後から突き出された武器を、男が金切り声を上げながら避けた。そして直後。クリハは有無を言わせぬ力で、動きで、ぐわりと宙に持ち上げられ、そのまま乱暴に馬に乗せられたらしかった。そのとき、青年が男を牽制するかのように突きつけていたのは、確かにこの大剣だった。
最初に男へと伸ばされた武器はもっと細かったように思えるが、それらしいものは見当たらず、またとっさのことだったのでそう思っただけかも知れなかった。

「……で?あんたどっから来たんだ?迷子かよ。」

面倒臭そうに、からかうように。
男と同じ言葉を言うそのやり方が、こんがらがったクリハの頭の中の、安堵を閉じ込めていた鍵穴にはまった。
ぼろり。
零れた大粒の滴に、青年の顔が強張る。
「おい……っ」
慌てたように手をさまよわせる仕草も、心底困ったその表情も。

何もかもがクリハの涙腺を刺激してやまない。

最初は人前で泣くことに対する羞恥なども頭を掠めた気がするが、結局クリハは大声を上げ、青年の腕にしがみつき、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにする事を選択した。
そうしても彼は許してくれるだろうという予感もあったし、何よりこれほど強い感情を抑し殺すすべなど、クリハは知らなかったからだ。
「君、どこから来たの?」
塾からの帰り道、街灯の少ない路地を曲がったクリハは、そんな、安っぽいナンパのような掛け方をされた言葉に、警戒心も露わに振り向いた。
しかし。
そんなことは考え付きもしなかったのだ。

まさか、その目に映る光景が、桃色に鮮やかな花畑と、そこに佇む漆黒の男だなんて。

漆黒の男。
それは、そうとしか表現のしようのない存在だった。
整った顔立ちは非の打ち所も無い程だったけれど、それは印象に残る、という事象とは対極に位置するものだった。
ただ、肌の色だけは、ぎょっとするほど白く抜け。
それが髪の、瞳の黒を引き立てる。マントのようにその長身を被う黒く大きな布も、見れば見るほど黒さを増していくように思える。

「……迷子、なの?」
呆けるクリハに、男は心配すらその表情に覗かせて。

血で湿したように紅く薄い唇が、ざらりとわらった。

……と、クリハは思った。

しかし、男の唇はやはり透けるような白。多少色味を見つけられたとしても、薄桜色とすら言えないような淡い色付きである。
「……!!」
その、錯覚が。
そんな錯覚をしたという事実そのものが。
クリハの足を、深く影に縫い止める。
「……い、や。」
幼子の様に大きくかぶりを振りながら、圧迫された喉から喘ぎを絞り出す。
今までに出会ったことの無い戦慄が、本能を強烈に掻き立てようとする。
「いや……っ!!」
それを理性で抑え込もうと、クリハはただ一つの言葉を繰り返す。

有り得ない。

有り得ない。有り得ない。有り得ない。
そんなはずはないのだ。

帰れば冷めた夕飯がテーブルにあって、それを温め頬張りながら、宿題をするはずだった。
そうでなくとも、目の前のこの存在は、ただの男でなければならないはずだった。
現実を揺るがす程の存在感を持ち、同時に引き込まれれば逃れ得ない程の虚無感を持つ存在なんて。

首から下は指先一つすらも動くことなく。見開いた目を閉じるどころか、男から針先ほどの視線を動かすことすら叶わない。
そんなクリハに、するりと滑るように歩み寄った漆黒の男は。
ぞろりと。
表面に笑みを浮かび上がらせ。
指先を。
クリハの額へと向けて伸ばし―――

「―――ッ!!」
金属を強く掻いたのかと思うような、脳に直接響く甲高い悲鳴を上げて、後ろへと跳び退った。

もっとも、クリハがこれを悲鳴だと認識したのは、もっとずっと後になってからだったけれど。