引き寄せ思考で・・・(^◇^)日記

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時間も重さも場所が変われば正確には変化するのが、今の科学では証明されていて細かく言えば、無視できるほどではあるけれど相対的には場所や運動で同じモノの様に見えても微妙に違うのが、この世の中なのだそうです。


 

 


 

その微妙な誤差という件は、GPSでは量子力学のお世話にならないと正確な位置が把握できないという技術で私たちは、日々の暮らしで既に活用しています。

量子力学の成果はGPSでもう活用されている。

GPS、つまり人工衛星を使った三点測量になると、時間の誤差がGPSに大きな誤差を産んで、車上の自分の今いる位置を画面に正確に示すことが出来ないそうです。

ちなみに地上での三角測量にはその様な誤差は無視できます。

ダムを造るにも、橋梁を造るにも、量子力学は不要です。

けれどもGPSを当てにしてドライブしている時には、量子力学が必要になっているというワケです。

 

 

 

 

 


ガリレオがピサの斜塔で重いモノも軽いモノも落下する速さに変わりがない事を私たちに教えてくれて、

 

 

 

 

 

 

ニュートンは万有引力で海王星の存在を予知してその後、海王星が見つかった。

 

 

 

 

 

 

ニュートンの引力の法則では水星の軌道の誤差が解決できなかったけれども、アインシュタインの相対性理論で、ようやく水星の近日点の問題も解決したそうです。

 

 

 

 



相対性理論の計算で、水星の軌道が表現できたという事です。
 

 

 

 


 
 
さて、宇宙という大きな空間では、時間と質量にはまだまだわかっていない部分があって、私たちは高さや幅、奥行きと時間のある世界で生きている意識があるのですが、素粒子の世界の話になると、私たちが意識できる4次元での発想では解決できない問題があって、4次元ではなくて、10次元で素粒子は運動しているそうです。

車いすの天才ホーキング博士が生前、ブラックホールの奥底の熱の問題を提案してくれてから素粒子は、どうやら粒ではなくて弦の様なモノなのではないか・・・?

という論争になったそうです。

例えば次元のお話。

綱渡りをする人にとっては、綱の上を渡る時は前に進むか後ろに下がるかしか出来ない1次元的な移動しかできないけれど、アリや小さな虫にとっては二次元の移動が出来るように、素粒子にはこの4次元の世界でも10次元の場があって運動が出来る。

速い速度で運動している人は静止している人より時間は遅く進むのも証明されています。

早い話、光速に近い運動をすれば、地球上で暮らす双子の兄弟との年の取り方に差が出来てしまうという事です。

光速で生き続ければ、地球上の様に早く年を取らない事になります。
 
でも実際には双子の兄弟は同じだけ時間を費やしていて、光速度で旅行してしまった後に地球に帰れば、浦島太郎になってしまうという事です。

ディラックが、電子の状態を数式化する事に成功したら何と、反物質の陽電子の存在が予想されてしまって、実際に陽電子が発見されて反物質の存在が明らかにされました。

この宇宙の真空は私たちが想像している全くの無とは少々違っていて、この宇宙の真空の場ではクウォークが、まるで水中の気泡の様に、泡が湧き出す様に正反同時に誕生しては、それぞれぶつかり合っては消滅したりしているそうで、中にはたまたまぶつかり合う事が他のクウォークに阻止されて、正反出会う機会を逸して真空に存在して陽子や中性子を形作る事になったそうです。

その周りに電子が引き付けられて原子が生まれて、ヒッグス粒子も真空をまるで素粒子の運動を邪魔する様に充満して行って、動きにくさを創り出して、物質に質量を生んだと・・・?

質量は重力で光の直進を妨げるかのように、空間を歪ませているそうです。

空間が歪むと同時に時間の進行も重力で変化する。

時間と重さにはその様な関係があるというのが今の科学で証明されている・・・。

時間と重さへの追及は、ビッグバンやダークマター、インフレーション宇宙、マルチバースなどの研究に深い関わりがあるのですネ。

世界はコロナウィルスの憂鬱に、悩まされています。


接触を制約・強制させられるし、経済的にも大打撃。


ITやAIがどれだけ進んでも、外出できないという自由を制約されると本当に辛いモノです。


でも昭和世代の状況なら、もっと辛かったかもしれません。


ITの進歩はその点、冬眠の辛さを緩和させてくれているのを実感したりもしています。


こうなると、引きこもりを生活の基本にされている方々にある意味、尊敬の念とか、辛さにおいては肌身に感じたりして、その大変さにも正直、痛感してしまいます。


日頃、そんなに外出したいとは思わない方なのですが、いざ無用な外出は控えなければならない毎日を迎える様になると、本当に辛いモノです。


白熊親子の子熊が、初めての広い世界へのデビューで、喜びを身体全体で表現している姿を思い出したりもしてしまいます。

 

 

 

子熊は感激でイッパイだけれども、お母さんは腹ペコだし、子どもを守らないといけないし大変なのが、実際のところでしょう。


それでも冬眠からの解放は取りあえず、この年を生き抜ける放浪・彷徨が、約束された感があります。


さて私たちが、積極的にコロナウィルスから勝利を勝ち取るためには、心身の健康を維持する事こそが、いの一番のやるべき事でしょう。


そのためには、食にも気を留める事。 ・・・という事で、コロナ死亡率「キャベツとキュウリ」で減少を“深堀り”解説というニュー記事を見つけました。


キーワードはスルフォラファン。


ブロッコリーやそのスプラウトに微量含まれているフィトケミカルの一種。


体内の解毒酵素や抗酸化酵素の生成を促進してくれて、身体の抗酸化力や解毒力を高めてくれる。


・・・とウィキペディアでは紹介されています。


さて今は、夏野菜の美味しい季節。 ヤッパリ旬の野菜は栄養も豊富で、味覚も最高。

 

 

 

 

この中で、キュウリがスルフォラファンを含有していて、対コロナな夏野菜なのだそうです。


日本では平安時代から栽培され、大正時代以降によく利用されるようになったもうおなじみの野菜です。


世間では、コロナウィルスに関するニュースが毎日報道されています。


京都府ではコロナウィルスの感染者で、外国人登録をしていたところを取りやめる事になったという事です。


人種差別撤廃をしたい歴史が、日本にはある事を思い出させたりします。


人種の差で感染者の違いが出るというお話には、免疫学上の資料にはなっていない・・・。


生活様式などの違いとかの他の要因という見解もあって、人種で感染の差が出たとは言えないともいえるからです。


それ以外にも、感染者情報公開の難しさは都知事などのニュースで、何となくその雰囲気が分かりそうです。


また、PCR検査で陽性が出たからと言って感染とは言えないし、その情報で間違った理解をしてしまえばとんでもないことになりそうです。


この様な情報は恣意的に操作できる可能性があって、 風説の流布にもなりかねない。


人口密度・接触に関するニュースも例えばスウェーデンは、人口密度は日本の19%なのに感染度は日本以上。


という事で、検査を100%信用できない。


夜の街・新宿・池袋・ホストクラブなどのローラー作戦(積極的疫学調査)のニュースだって、 確実な戦略として使えるのかどうかが不明なのだそうです。


このニュースだって政治的・経済的に確実な効果を期待出来るのかどうかとか、もし悪用されれば大きな痛手にもなりかねない。


抗体検査はまだ使えないレベルです。


資料数が足りないし、統計的なデータを研究者が分析できる数が足りないともいえるからでしょう。


こう考えていくと、何とも悩ましいコロナウィルスな昨今です。


とはいえ、健康の維持というのはこの時期に限らず日々、気を留めていても苦にはならない問題の一つ。


美味しい食生活にも貢献してくれて、健康にも寄与してくれる。


医食同源というところ。 美味しい夏野菜で今年の夏は、+コロナウィルス克服も兼ねてさらに美味しくなる食欲の秋を迎えたいモノです。

 

ウィキペディア参照

 


私たちが"数字"を意識するのは、経済とか時間、量程度で、何時も(日常)はその程度のモノだと思います。


後は小学生の後半でせいぜいピタゴラスの定理を教えられて、おぼろげながら三角形の不思議を思い出す程度なのかもしれません。


義務教育を終えるまで数字のお勉強では、私たちは解析学・代数学・幾何学のある事を教わりました。


それらはみんな、自分にとって苦手な数字の世界でした。


今では解析はというと、巨視的・微視的なイメージで、代数は数字と四則演算の不思議な印象、幾何学なら図形や次元との数字の関係のイメージ(?)という大雑把なイメージです。


という事でその後の人生、何かを比べる時くらいにしか数字は、私たちの生活では登場しない雰囲気です・・・?


ところが数字には色々な秘密が隠されていた・・・。


数字と記号を用いれば、色々な事がイメージできる。


その中には、芸術に通じる美しさも存在している。


数式には、美すら存在しているという事です。


その事については、数学に今までの苦手さを忘れて、判らぬまでもある程度チョッピリ頑張ってみれば、ホウホウ、ナルホドなどと数字・数式の美しさの一端に、感動できるかもしれません。


この感動が、鮮明な方たちなほどきっと、数学に愛された人々なのでしょう。


その様な先生から良く聴かされるお話が、オイラーの等式だと思います。





eはネイピア数。この数字が不思議なところは、・・・





つまり、





そして、iは虚数。i×i=-1。


また、πは円周率。


これらはそれぞれ、解析学・代数学・幾何学で登場する数字のお話で、それ等が0と1で数式になる。


iやπの虚数・無理数が、この様な式になった時、0と1で繋がってしまう・・・。


これが数式の美しさを表現しているという事です。


数字を愛している人々にはソコに美を感じます。


オイラーは生前、息をするように計算していたそうです。


ガウスはこの公式を観て感動できない人には数学のセンスは、哀しいかな無いでしょうとも言われたそうです。


数学にはホトホト縁がなかった我人生(>_<)世の中には、想像も出来ない様な発想で、驚く程の世の中の秘密を暴露するかの様な人々が、数学で名を残してきました。


オイラーの等式には、解析学と代数学・幾何学が絶妙に融合されているという事が実感できるのが、マクローリン展開。





このkを無限に続けて計算すれば、・・・





この右辺の式と虚数の性質を組み合わせて、オイラーの公式に当てはめます。


ちなみにオイラーの公式は、・・・





この公式の意味は縦軸に虚数、横軸に実数のグラフに単位円を描いたときに・・・





と表されます。


φ=πとなった時に、オイラーの等式が成立すると・・・。


上述のグラフは曲形式で記された方式で、詳細はド・モアブルの定理で、





が成立する事が判っています。


これは正に、指数と周期の関係を数字で表現された事になります。
(その詳細はウィキペディアに委ねますm(_ _)m)


数字と記号で、自然の現象の美しさや不思議をヒトは知る事になりました。


そんな感じのするお話なので、日記にしておきます。

 

コロナウィルスが世界を席巻中です。
 
 
これはもう第二次大戦並みの歴史的なエポックとして語り継がれる史実になりそうです。
そもそも、事の始まりは・・・?
 
 
という前に、ウィルスと生物について少々の復習です。
 
 
という事で、再びソモソモ地球は、ハビタブルゾーンとして生物が発生できた惑星になりました。
 
 
ハビタブルゾーンとはいえ生物が発生するまでには、生物にとっては苛酷な時期があった事も考えられています。
 
 
例えば生物の発生した地球にとって、太陽の影響が最もハッキリしていて、衛星の月にも影響を受けて来て、銀河系での放射線などにも影響を受けて、何度か全球凍結も経験して、生物はその度に大量絶滅して来たそうです。
 
 
生物には、大量絶滅と茎進化、冠進化が少なくともこの惑星では試練(?)・進化として用意されていた・・・。
 
 
地球自身、磁場を形成して地表を太陽風から保護してハビタブル化したし、マントルの対流・プレートテクトニクスなどで、乾燥と湿潤を何度も何度も繰り返して、単純な分子が自己複製機能を持つリボザイムが生成できる環境も後の生物に提供してくれたそうです。
 
 
そして、生物は地球で発生した。
 
 
この頃の生物とは、脂肪酸で細胞に膜を形成してRNAを保護する様な古生菌と新生細菌の誕生をイメージしてしまいます。
 
 


生物ドメイン系統図(ウィキペディア参照)

 
 
結局その後に、バクテリア、古細菌、真核生物などと呼ばれる、3ドメインのカテゴリーで生物は進化してきました。
 
 
ここでウィルスは生物ではなくて、生物に寄生して自己複製機能を持つリボザイムを持っているという立場の存在だという事です。
あえて言うなら有機物。
 
 
炭素や酸素・水素・窒素やリンの化合物、分子というイメージです。
 
 

ウィルス・ウィキペディア参照
 
 
ウィルスは宿主を殺してしまうと、自分も自己複製機能を稼働できなくなるので、生物で言うところの死という状態になります。
 
 
ウィルスは簡単に変異します。
 
 
しかしながら、アルコールなどで簡単に分解もします。
 
 
ウィルスの大きさは細胞と比較すれば以下の様な図のイメージになります。
 
 
私たちは生物を以下の様に考えて来ました。
 
 
先ずは動物と植物。
 
 
 
 
次に、原生生物を加えました。
 
 
代表的な原生生物と言えば、例えば昆布やカビやアメーバ等々・・・。
 
 
 
 
その次に、菌を発見。
 
 
 
 
今では、以下の様に考えていて高校生以降では、このようにして認知しています。
 
 
 
 
ウィルスが発見されるまでには、電子顕微鏡の発明まで待たなくてはなりませんでした。
 
 
ばい菌より小さな生物ではない、ウィルス。
 
 
生物は色々な試練を乗り越えて、地球に生きています。
 
 
中でもヒトは、生物の持つ進化に基づいているのかいないのか、脳細胞が自然を積極的に応用したり、肉眼では見えないモノを観たりして、ヒトの手で進化に携わろうともしています。
 
 

 

 

バブル時代真っ最中な頃、欧州へ旅行された方々なら、EU以前のヨーロッパの西欧旅行を楽しめたのではないでしょうか・・・?

 

 

その国々で紙幣は異なって、ポンドもあればフランもあって、ギリシャならドラクマで、イタリアならリラ・・・。

 

 

今ではユーロで統一されて、悲喜こもごもなヨーロッパな感じもします。

 

 

欧州へ旅をすれば、美術館巡りや教会へも伺ったりして、石で組積された歴史的建造物をどの国ででも見受けられて、日本では考えられないくらいに厚い壁や石畳にも異国情緒を感じさせてくれたりします。

 

 

当時のイギリスには、まだ木像のエスカレーターも残っていて、ゴロゴロと大きな音をたてて不思議なアンティークのイメージも感じたり、タクシーのオースチンにも補助いすが木製だったのを記憶しています。

 

 

あの頃に比べると、経済は益々世界を席巻して、旅行を楽しむという中にもあの頃にあったワクワク感とか、異国情緒な感じが希薄になったのではないかという気にもなったりします。

 

 

西欧にはどこに行っても教会があって、日本の神社仏閣以上にランドマークにもなっていて結構、幅を利かせている印象です。

 

 

結婚式は教会で挙げるというイメージが、強烈に、日本人ならついつい勝手に、想像したりもしたものです。

 

 

でも実際は、ことオランダに限れば、結婚式は市庁舎で上げるのだそうです。

 

 

教会ではなくて、市庁舎で挙げる事が多いのだそうです。

 

 

オランダの市長は選挙で任命されるのではなくて、国から任命されるそうです。

 

 

市民の結婚式には必ず出席して、市長も一緒に祝うのだとか・・・。

 

 

これは、司馬遼太郎の街道を行くで放映されていたお話です。

 

 

オランダへ行けば、国立美術館に訪れる機会があるでしょう。

 

 

ソコにはレンブラントの夜警が展示されていて、その本物を肉眼で見られることに感激した事を覚えています。

 

 

西欧の美術館では、歴史的な絵画が数多く展示されていて、特にイタリアやイギリス、フランスではキリスト教に関する絵画をかなり多く鑑賞する事になります。

 

 

近世になって、日本の浮世絵や木版画が欧州に渡って、ジャポニズムが欧州の画家たちにセンセーショナルなエポックになって、絵画に求められていた意味合いに、新たな美が添えられるようになって、印象派と呼ばれる様な、絵画の新たな可能性が生まれたとも言われたことは、日本でもお勉強で学ばされたとも思います。

 

 

日本の私たち自身、浮世絵や木版画を肉眼で鑑賞する機会は早々にはない様な気もしますが、実際に北斎や広重、写楽を鑑賞すれば、写真やTVではわからなかった、ダイナミックな印象を与えてくれたものでした。

 

 

近世美術館では、ピカソやダリ以降の新たな絵画も誕生して、それ以前に誕生していた絵画と一緒に展示されて少々分かりにくいのですが西欧では絵画とは先ず、キリストに関わる、神に関わる作品が圧倒的だった。

 

 

逆に言えば、神に関する出来事を絵画で表現していた。

 

 

それが欧州の美術館で受ける大きな印象の一つです。

 

 

しかしながら、オランダでは先に述べた、レンブラントの夜警のような市民を描いた作品が展示されています。

 

 

司馬遼太郎の街道を行くでは、その件に言及されていて国土とは神が与えたもうた恵みだというのがほとんどの国での思いなのですが、ことオランダでは正に民衆によって培われた国土だったという事です。

 

 

オランダは海抜より低い国土が、ある事でも有名です。

 

 

オランダの人々は民衆の力で国土を開発して、国家を維持して来ました。

 

 

この国の道は海外から石を輸入して、専門の職人の手によって道路が舗装されて来た。

 

 

国土を守る堰堤も石の組積みで拡張されて来た。

 

 

コンクリートではなくて石で国土が守られて来た。

 

 

この事は、漁業や農業などの食うための産業には多大な貢献をしてくれて、この国の自然を担保してきたという事です。

 

 

オランダの石の専門家なら、石の顔を見ただけでどこから仕入れられた石かもわかる程、その関わり合いが深いのだそうです。

 

 

オランダに限って、国土は民衆によって培われた恵みだった。

 

 

民衆の力は絵画にも波及して、民衆が割り勘で絵画を作成した。

 

 

一人一人の国民が割り勘で、レンブラントの夜警を造ったワケです。

 

 

オランダの日本人小学校は年間1ギルダーの賃貸料でその土地を小学校として、活用しているとの事でした。

 

 

当時の日本は国土を投機の手段にしていた。

 

 

司馬遼太郎は、その事実を憂いて程なく他界されました。

 

 

オランダは東インド会社で国力を増大させた時期が、あります。

 

 

当時も王権によるものではなくて、民衆の力で会社を設立して国力を増強させてきた。

 

 

一方でチューリップを投機の材料にして、バブルを経験して自虐的な絵画も残しています。

 

 

日本では古来よりご先祖様の土地に縛り付けられて、悲喜こもごも味合わされる現実があります。

 

 

国土と国民は、どのように相対するべきなのでしょう。

 

 

災害の少なくないこの国。

 

 

海外からの圧力も少なくないこの国。

 

 

国民の命も財産も、国土ありきで国家は形成されている。

 

 

縄文時代には調子のよかった頃もあったから、一万年以上も続いた・・・?

 

 

かつてもこの日記で書かせてもらった、農耕文化を取り入れて、均質化を好むこの国の人々の性格が否応なく稲作の文化を取り入れて、飢饉を経験してしまった北国の事件・歴史。

 

 

国土が神より与えたもうた恵みのままだと、人は神に甘えて土地利用を間違えたりするのでしょうか・・・?

 

 

オランダの国土を一時、羨ましく思ったりしてしまいそうです。

 

 

でも実際は、民衆の力を注がないと生きて行けない国土だった。

 

 

本来の民主主義とはオランダの風車に表現されていたのかもしれません。