城内に看板があった。

 

 

うわっ!新政府軍に我が熊本細川藩の九曜の紋が!

アウェイか?アウェイなのか?

 

うろたえるな。僕らは電波飛び交う21世紀に生きている。

「会津戦争」をウィキで調べると、この九曜紋は大垣藩のものであった。

ほっと胸をなでおろしつつ。

 

ちょい気になったのがこの

「会津が守った『義』の戦い」

というキャッチコピー。

 

会津軍が義であれば、新政府軍は不義なんだろうか。

それとも新政府軍には義があったが会津にもまた守るべき義があったという話なんだろうか。

 

http://boshin.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp

 

このブログの「福島へ行こう」の前項では領主及び武士側と民衆の乖離を確認した。

上にリンクを貼った会津若松戊辰150年記念事業のサイトでは義について語られている。

ものすごく大雑把に言えば徳川家に対する義である。

当時の会津士族が全うした、その純粋性が義だというのだ。

 

地域主義が明治以来つい先ごろまで軽んじられてきた日本。

それはそれでひとつの視座だと思う。

僕も西南戦争を始めとする明治10年前後の士族の反乱については、山川の教科書執筆陣が思い込んでいる理由とは違う「義」を、新たな資料から見出しているところだ。

 

このサイトを見ると「会津の先人たち」というページがある。

なかには熊本の旧制第五高等学校の教職を務めた秋月胤永(あきづきかずひさ)のような方がおられ、少し親しみを感じる。

 

でも。そのほとんどが上級士族の人々だ。

 

 

会津藩は新政府軍に敗退した後、青森県の斗南(となみ・青森県東部エリアから七戸や八戸等の農産池を除いたエリア。地力が著しく低い)に転封となる。

会津藩は実質28万石。

斗南藩の表向き3万5000石弱だが実質は7380石といわれる。

そこに1870(明治3)年に謹慎が解かれた旧会津藩士の約2万人のうち、4334戸1万7327人が斗南藩に移り住んだ。

 

お米1石は100升であり1000合。

1食に成人一人は米1合、1日3合が概ね一年の一人の消費量。

よって1石は成人一人が1年間に消費する米の量。

だから移住した斗南藩には武士の成人7380人分のカロリー量しかなかったのである。

仮に年貢が全て米であり、上下の隔てなく均等に家臣に分配したとして。

 

 

最初の冬だけで寒さと飢えにより数百人が命を落としたという。

そして翌1871年8月29日に政府は廃藩置県断行。

最北の地で旧会津藩士は仕えるべき藩を失い、糊口の道を失った。

 

一部の人々はそのまま青森に残り持ち前の儒学知識を用いて教育界をリードするなど地域に貢献していった。

だが多くの旧会津藩士は一人、また一人と斗南を離れ、それぞれが「約束の地」である懐かしい会津若松を目指した。

そうして数年かけて会津若松に戻ってきた数は1万人以上にのぼった。

 

国なしの民としてさすらい、差別され、困難にあい、そして約束の地へ。

ユダヤ民族の流浪を思うような艱難辛苦だ。

その艱難辛苦は強烈な望郷の念、そして郷土愛に支えられていた。

だからこそ、その様子を見た旧領民にも、地域の経験として郷土愛が根強く共有されるようになったのかもしれない。

 

開設されている戊辰150年のサイトを見ると、行間に新政府への怒りや恨みが透けて見える。

これは今後しばらく、このままなのだと思った。

だが。

むしろ会津の人々がこの歴史を普遍的に俯瞰しつつ現在の平和の世に生きる喜びと、歴史をもとに未来を語り出すとき、この地は大きな可能性を獲得するのではないだろうか。

 

 

それは取りもなおさず僕ら熊本人の課題でもあった。

戊辰戦争を語る会津人よりもまだ状況は悪いかもしれない。

加藤・細川の時代を回顧主義礼賛主義で捉えるだけでは、止揚的発展ができない。現代社会にイノベーションを生むことはできない。

この城内を歩きながら、熊本でも加藤・細川の事績を善悪ともにおさらいし、盲目的に過去を礼賛するような熊本人のメンタリティから変えていくような活動が必要なのではないかと考えた。

 

何より西南戦争の総括さえ熊本では終わっていないのである。

徳川方の悲劇の白い城を歩きながら、僕は豊臣方の黒い城が街を見下ろす熊本のことを想っていた。

 

 

 

 

撮影地:福島県会津若松市追手町1-1 会津若松・鶴ヶ城

撮影機材:OLYMPUS OM-D E-M5

     + M.ZUIKO DIGITAL 12-50mm ED MSC