K-PRO作家の島野研治が、一昨日自宅で亡くなっているところが見つかりました。

まだ40歳。
事件性はなく、突然死に近い形のようです。

島野さんとは、K-PROが初めて大阪でライブをやろうとなった時に、
関西で「内線260番」という作家集団があると聞き出会い、
何もわからない私たちにとても親身に協力してくれました。

その後メールや電話を毎日、本当に毎日連絡を取るようになり、
ライブの打ち合わせはもちろん、東京と大阪のお笑い事情を交換したりしていました。

当時はLINEもツイッターもなかったので、月の電話料金が異常なことになっていたのを覚えています。それでも連絡したかったんです。

その後、大阪吉本の制度が変わり、芸人貸出禁止となってしまい、
大阪でのライブ活動が難しくなってしまいました。

それならと「東京に来て、K-PROとして一緒にやりませんか?」と誘い、東京に引っ越してきてもらいました。
上京を即したのは私です。二つ返事で来てくれました。

家探しから一緒にやりました。
無事高円寺に決まり、「なかのZEROや座・高円寺でやる時は荷物置かせてくださいね!」と、引っ越しそばを食べながら話したりしました。
実際に島野さんの家で550部チラシを折込みしたりしていました。

この頃は毎週打合せをしていました。
当時K-PROは横浜に事務所があり、一度だけ来てもらったことがあります。
遠過ぎるからと、一度だけでした。

そういえば、今の新宿の事務所にも一度しか来てもらったことがないです。それも数分だけ。
劇場では毎日のように会っているのに。
そういう人なんです。


K-PROも軌道に乗ってきて、スタッフもかなり増えてきた辺りから、
休みやライブ以外の時間に頻繁に会ったりすることが減ってきました。

それでも、毎回大事な決断をする時は相談に乗っていただいてました。
話を聞いて、「んぁ~、どっちですかねえ~!?」と言って、決定権は毎回私にさせてくれていました。
そして、どんな決断を私がしても、全部肯定してくれました。
たとえ失敗しても、責めることなんかせず、常に優しくアドバイスをしてくれました。

スタッフともよくご飯に行ったりコミュニケーションを取ってくれたりしていました。
歴代のスタッフも、みんな島野さんにだけは仕事も進路相談なんかも相談していたみたいです。
全員に優しく、時には厳しく、相談に乗ってくれていました。

K-PROでは、作家業の他に、音響照明を担当していました。
当時は人手が足りず、「大阪時代にやったことがあったから」という理由でやってもらっていましたが、そのままずっとやってもらい続けました。

真面目でしっかりやる性格がそのままオペにも出て、「K-PROの音響照明は安定している」と評判になりました。
たくさんのコント師が、「島野さんが音響照明ならこのネタを」と、
単独ライブでしかやっていないような複雑なネタを持ってきてくれたりして、それがK-PROの一つのウリになったりしました。

トップリードさんやザ・ギースさん、ラブレターズさん達から直々にご指名いただき、
キングオブコントのオペレーターとして、何度も何度も決勝の生放送で音を流していました。

単独ライブも数え切れないぐらいやっていました。
音響照明はもちろん、舞台監督としてもご依頼いただいたりして。
大会場の打ち合わせも島野さんなら安心と、会場の人に言われるぐらい信頼されていました。


今年の8月、担当していた単独ライブの時に、楽屋で急に倒れたと連絡がありました。


すぐに劇場に行くと、音響照明ブースにいました。
「すいません、急に倒れちゃいましたわ笑」と、大丈夫だと伝えようとしていたのか、いつも以上の笑顔でした。
倒れた時に歯が折れたらしく、でも演者やお客さんに心配させないように顔が隠れるぐらい大きなマスクをしていました。

その日はそのまま無事に音響照明をやり切っていました。
病院に行きましょう!と何度も言ったら、渋々夜間救急病院に行ってました。
夜中LINEで「寝不足か何かだろうから、ちゃんと寝てって言われました。」と連絡がありました。

ほっと安心していた次の日、スタッフから「島野さんが、また倒れました」と連絡があり、すぐに劇場に向かいました。
今回は劇場の椅子に座り、マスクもしてませんでした。酷く落ち込んでいました。
腕から落ちたらしく、アザが何箇所かありました。


二日連続で倒れたら、舞台人としてはもう終わりです。


急遽別のスタッフが代わりに音響照明に入り、島野さんは救急車で病院に行かせることになりました。

救急車を待っている間、「芸人さんにホンマ申し訳ない」「難しいきっかけのコントが2つあるんやけど、大丈夫かなあ」と何度も言っていました。

前日とは違う病院に行き、検査にも立会いました。
審査結果は昨日とおなじく、原因不明に近い「寝不足」でした。
昨日と違うことは、その日から検査入院が決まりました。

三日間で退院したと連絡がありましたが、とりあえずライブに顔出さなくていいからと、そこから二週間お休みにしました。

二週間後、挨拶にライブ前に来ると言われました。
私はすごく気が重かったです。
なぜなら、「もう音響照明はやらせることはできない」と言うつもりだったからです。

二週間ぶりに来た島野さんは、顔色も良く体調も良さそうで安心しました。

劇場近くの喫茶店に行き、世間話をしながら話をしつつ、どう切り出そうかと考えていました。
その時島野さんが言い出しました。

「僕は、今はホンマに何ともないです。でも、今日ここに来るまでの道のりが、すごく怖かったです。
また倒れるんじゃないかって。何度も通ってる道なのに。
こんな状態で、ライブでオペレーターをすることは、できないと思います。
ホンマ申し訳ないですが、オペレーターの仕事は、別のスタッフにやらせてもらえませんか」

私が言わなきゃいけないことを、全部自分から言ってくれました。
昔から、この人はそういう人でした。
島野さんの、舞台人としての引退が決まりました。

その後、島野さんはライブにはほとんど顔を出さず、劇場さんとの打ち合わせや、
舞台管理の仕事がメインになりました。
そのどちらとも、島野さんの希望通りに若いスタッフも一緒に帯同して。
島野さんが倒れた時にすぐ対応できるということと、いずれこの仕事も出来なくなった時にと、若手に仕事を教えるためです。

作家業もしていたので、ライブに来ない間は自宅でネタを書いたり、頻繁に奈良の実家に帰っていたみたいです。


最後の仕事は、11/23でした。


この日は、北沢タウンホールと新宿バティオスでそれぞれ複数ライブがありました。
私を含め、会場の規模的にメインスタッフはタウンホールにいました。

当然、バティオスの布陣が弱くなります。
そこで、島野さんには、最初タウンホールに来て舞台管理として準備してもらい、
落ち着いたらバティオスに移動してもらうようお願いしていました。

しかし、タウンホールで複数回ライブをやるのは初めてで、
しかも一公演目からきっかけが多く、リハも終わり落ち着いたのは、会場の5分前という状況でした。

私やスタッフは、すぐ開場準備に取り掛かりました。
時間もないのでバタバタしていました。
この日が特別にという訳ではなく、複数ライブがある時はいつもそうです。


島野さんは、その間にバティオスに移動していました。


これが、私が島野さんと最後に会った日になりました。


その後、バティオスに着いた島野さんとはLINEのやりとりは何度かしました。

最後にしたやりとりは、この日の全ライブが終わった後、島野さんからライブ報告がありました。
内容は「K-PROスタンプカードの期限が過ぎてるのがありました。注意してみた方がいいかもです」でした。


最後の最後まで、K-PROのことを考えてくれていました。


27日に、座・高円寺の方から「今日島野さんと打ち合わせの日なのですが、時間になっても来られませんでした。何かありましたか?」と連絡がありました。

島野さんは真面目な人なので、連絡なく行かないということはないです。

LINEをしてみましたが既読がつきませんでした。
他スタッフが電話もしたのですが、出ませんでした。

ここで、普通であればもっと心配すると思いますが、島野さんとは月に数回しか会わなくなっていたので、
忙しいのかな、奈良の実家に帰っているのかなという気持ちも起きて、すぐに高円寺の家にまで行こうとはなりませんでした。
連絡を何日もしないとか、そんな人じゃないのは知っていたはずなのに。
一番自分が許せない、悔やんでいることがこれです。


29日の夜22時半頃、野方警察署の方から電話がありました。
自宅でうつ伏せ状態で倒れていたそうです。

うっすらその可能性を感じていたからだと思いますが、電話で亡くなっていたと言われた瞬間に大泣きしてしまいました。
刑事さんに「大丈夫ですか?お話しできますか?」となだめていただきました。

翌30日にお母様がこっちに来ると言われて、会いに行きますと伝えて電話を切りました。

切ったあと、電話をしていたその場にいた事情を把握していないスタッフに説明し、何人か近しい芸人に連絡したりしました。
全員ものすごくショックを受けていました。


翌日、警察署に行き、お母さんにご挨拶させていただきました。

お母さんの前に行った途端、申し訳なさと後悔と悔しさで、涙が止まりませんでした。
お母さんは泣き止むまで待ってくれていました。
「あの子から話は聞いていました。本当にお世話になりました。大好きなお笑いの世界にいさせてくれて幸せだったと思います」
と言ってくださいました。また大泣きしました。
かろうじて、絶対に伝えたかったことだけ言ってきました。

「島野さんのおかげで、今の自分があります」
「みんな、島野さんのことが大好きです」

嬉しいですと、今度はお母さんが大泣きしていました。


本日、東京での葬儀がありました。

ご家族の意向で少人数で見送りたいとのことで、プライベートなどで親交のあった方数人と、最後のお別れをしてきました。

行きたかったと沢山のスタッフ、芸人さんに言われました。
島野さんは、めちゃめちゃ愛されていました。


最後に、島野さんへ。


2007年に、あなたと出会えて、本当に本当に良かったです!
それから10年間、楽しいことも辛いことも全部一緒に経験してきて、一緒に悲しんで、喜んで。
全部が、自分の人生にとってのかけがえのない思い出です!

もっともっとお笑いの話をしたかった!M-1誰が行くかなとか話したかった!愚痴聞いてもらいたかった!
亡くなってから言うのは本当に最低だけど、私にとっての最高の親友であり、相方でした!

本当に本当にお世話になりました!
またいつか、ライブやりましょう!