小説・「決意」① 発信の件 | 失語症作家 小島恒夫のリハビリ・ノート!!

失語症作家 小島恒夫のリハビリ・ノート!!

自ら作家と名乗る人間にろくな者はいないでしょう,他の方はともかく。私は2000年、脳出血を患い失語症になりました。そしてリハビリの一環として文章書きをしています、作家のように――。
何はともかく、よろしく!  (1941年生まれで、現在・80歳になる単なるじじい)

 

2020年2月25日(火) 発信

 

 

   

世間は、コロナ騒ぎで大変な時期に、こんなバカバカしい恋愛小説(正確には恋愛を題材にした、小説)、を発信してどうするんだ‼ と、思いますが、それはそれ、これはこれで、取り合えず読んで下さい。

 

 

 

「決意」①

 

 カーテンの隙間から差す陽の光が、壁にぶら下げたカレンダーや椅子に掛けたジーパンに当たる。十一月半ばの土曜日、正樹は不確かな意識で目を覚ますと、ベッドの中で半身を起こして鷹揚な欠伸をした。休日はいつも昼くらいまで寝たり起きたりの状態だが、枕元のスマホを手に取ると、沙紀からのメールが入っていた。

 

「PM六時、池袋駅の東口でどう?」

 

 沙紀は看護師をしている。

 従って土曜日と日曜日が休暇という訳には行かず、デートにはそれなりの時間調整が必要だった。正樹は「了解!」と返事を送信したあとベッドから出てキッチンへ移動した。眠さは消えている。食卓には母親が用意した朝食がある。正樹はそれを食べながら朝刊に目を通したが、母親は友だちに会うと言って朝から出かけている。出かける前に耳元で何やら云われたが、関心もなく生返事をしていたのでよく覚えていない。

 キッチンで食事を摂ったあと、居間に移って録画しておいたニュースと連続ドラマを見た。ニュースではアメリカの大統領がどう言ったとか、中東やヨーロッパのテロが映されていたが意識の麻痺を感じる。

 

 気づくと午後五時近くになった。六時に池袋となれば歩きを含めて、五時ちょっと過ぎに家を出なければならない。正樹はパジャマを脱いで厚手のブレザーとラフなズボンに着替え、部屋のライトを消し外へ出た。母親には「伊東君と飲むが遅くなったら泊まる」、とメモを書き食卓に置いた。家の中では感じなかったが、外はぞくぞくっとする冷たさがあり埼京線M駅へ向かう通りは、コンビニも本屋も洋品店も明りを点けて夜の準備に入っている。池袋はM駅から三十分くらいの距離だが正樹は足早に歩を進めた。

 

 ところが駅前のバス停に差しかかると、見知らぬ男が正樹に声をかけてきた。

 

「にいちゃん、しばらくだね」

 一見してホームレスと思える格好で歳は五十前後か。バス停のベンチに座ると大きな身体と長い足をだらしなく投げ出し、上目遣いに正樹を見ている。

 

 ――しばらく?

 

 正樹は咄嗟に記憶を手繰ったが思い出せない。知らない男の顔だ。正樹は止めた歩を元にすると立ち去った。

 

 

 M駅のホームは高架の上に微風も吹き出し冷たさがより感じられる。それに土曜日の夕方のせいか、様々な人たちが様々な格好でうごめいている。沙紀と逢うのは一週間ぶりなので想いが幾多に募る。先週は食事のあと映画を見たが今夜はどうしよう。それともスナックの「ニエモン」で飲むか? 考えているうちに電車が来た。

 

車内には都心へ繰り出すつもりなのか高校生くらいの集団がいる。正樹は中程まで進んでつり革に摑まった。先程まで見えていた空も真っ暗になり、星がぽつん、ぽつんと光り出した。その光も車内では人いきれで窓が曇ってよく見えない。

 

 そこで正樹の意識に、先程声をかけてきたホームレスの顔が浮かんだ。

 

 ――そうか、あいつだ!

 

 白髪混じりのボサボサ頭。無精ひげ。薄汚れた黒のジャンパーと茶のズボン。靴はすすけたスニーカー。風貌は変わっているが目鼻立ちを覚えている。

 

 ――あいつに間違いない。

 

 今から五、六年前のことだが正樹は確かにあの男と会っている。と同時に大学入試に二度目も失敗した浪人時代が思い出された。

 

 当時正樹は毎日をいらいらした気持ちで送っていた。勉強の能率は上がらず、母親とは些細なことでぶつかる。抵抗すると更に叱咤される。小さいときから、あなたには父親がいないんだからその分頑張らなくちゃ駄目なのよ、と厳しく躾けられてきた。まして一人っ子だからその影響は大きくいつもぴりぴりしていた。両親は正樹が八歳のときに離婚して正樹は母親に引き取られて育った。二浪が決まったとき、家では集中できないという理由で近所の図書館へ通いだした。

 

 ところがそこには、場違いな男が数人いて気味が悪かった。四十半ばで毎日同じ服を着て、首筋を黒くし、近づくと桃が腐ったような臭いがする。どんな仕事なのか分からないが本を借りる風はなく、終日雑誌コーナーでぶらぶらしている。

 

 家で母親に話すと、それはホームレスだから近寄っては駄目だと釘を刺された。もし彼らがホームレスとすれば、図書館は天国である。冷暖房は効いているし、ふわふわのソファーもある。一日中いても職員は出て行けと言わない。そんなある日、いつもスポーツ新聞を見ていたあの男が、玄関近くで正樹とすれ違いざまにぶつかって来た。正樹ははずみで持っていたノートや参考書類、筆記具を放り出してしまった。

 

「にいちゃん、わりいな!」

 男に他意はなかったらしく、謝ると散らばったものを一緒に拾ってくれた。そして拾い終わると話しかけてきた。

「にいちゃん、この辺の人かい?」

「はい」

「大学生?」

「いいえ、……」

「じゃ、高校生か?」

「…………」

「ああ、浪人中か」

 男はくすりと笑って尚も話しかけた。

「にいちゃん、俺も浪人中だけど、浪人は互い辛いよな」

 正樹はその言い方に自嘲を感じたが、自分がからかわれたようにも思われて尖った気分にもなった。

 

 

 しかし口を利いたのはそのときだけで、以後も度々見かけたが、いつも右手をちょっと上げて、「よッ!」と変な挨拶をしても、近寄っては来なかった。勉強の邪魔をしては不味いと考えたか、或いはガキの相手はご免と思ったかそれだけだった。だが正樹にとって男が投げかけた「俺も浪人中」、の言葉は心深く響いて長く残った。

 

 ――僕はあの男と同じ浪人だ。いずれ僕もああなるのか? 来年また失敗したらどうしよう。受験を止めちゃうか? 駄目だ、そんな弱気は。合格するまで頑張るんだ。でも努力は必ず報われるとは限らない。僕はあの男と同じ素浪人だ。

 

 来る日も来る日もベッドに横たわると、同じ問いを繰り返した。

 

 ――ひょっとして僕はもうホームレスかもしれない。落ち着ける場所がない。

 先が見えない日々に、男の姿が覆いかぶさり正樹の不安を倍加させた。

 

 

「次は池袋、次は池袋」

 

 五時四十五分、ちょうどいい時間だ。正樹は後ろの乗客から背中を押されながらもホームへ出て階段へ進んだ。

「ちょっと押さないでよ!」

 途中で中年のおばさんが叫ぶ。正樹もそれを聞きながら下りると東口へ向かう。大学はその翌年に合格出来たので浪人生活に終止符したが、あの男はまだ浪人中か、正樹の心に憐憫なものが走った。以前よりやつれた姿をしていたが、「しばらくですね」とか「今日は」とか言葉をかけた方がよかったか、正樹の心に悔やむ思いが湧いた。

 改札に着くと沙紀は既に到着していて、男への想いもそこで途絶えた。

(つづく)