信じた自分を信じる。
これは人生で大きなウエイトを占める、非常に重要な事なのだ。
自分の事を自分で認められない人間が存在するのも事実、救われる自分救われない自分を分けている。
己自身の意識が作っている。 
何かを信じるということ、そしてその何かを信じた自分を信じられるかということ。
宗教だろうと個人だろうと、その時何かを感じ、感動を覚え、「信じた」という自意識がある。
確かにその時は信じた。しかし家に帰って一人になり、冷静に考えると「やっぱりあれは嘘だ、信じられない」という思いになる。
一見、信じた何かを否定しているだけのように思える。
しかし、否定しているのは何も信じた何かだけではなく、その時「信じられる」と決めた自分自身を否定しているのだ。
自分を自分で否定して、裏切って、自分の事だからいいじゃないか、では済まされない。
自分を自分で否定することを魂は嫌う。

人間は自分で自分を裏切る。
何かを信じた自分を裏切る。
自分で造ったルールも裏切る。
その理由は常に己にあれど、うまく他人に責任転嫁して自分を誤魔化す。

明日の朝から元気に挨拶をしよう、と決めても、次の朝不機嫌な家族の顔を見て、「あんな顔を見たら挨拶なんてする気にもならない」となる。
挨拶しようと決めたのは自分。不機嫌な家族の顔を見て「やっぱりやめた」と決めたのも自分。
不機嫌な家族が悪いのではなく、不機嫌な家族への感情を優先し、挨拶を止めた自分が悪い。
じゃあ、不機嫌な家族は悪くないのか?と屁理屈を言いたがるのも人間。
家族だろうと何だろうと、他人は関係ない。
自分がすると決めた事をただ淡々とできるか否か。
そこに感情は不要。その感情を魂は嫌う。
自分のルールを破り、尚且つ感情を剥き出しにし、ルールを破った責任を他人に押し付ける。
罪に罪を重ね、罰を受けるのは自分。決して天が罰を与えるのではなく、自分が罰を導いただけ。

何もかもを信じろということではなく、何かを信じたのであればそれで良し。
その信じた自分を、疑うことなく、否定することなく、ただ信じていけるか?
間違っていたと思うなら、きちんと礼を尽くして次に行けば良し。
それを後ろ足で砂をかけていくゆえに、罰をもらう。