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大きな事故にギリギリ巻き込まれなかったり、事故にあっても大したことがない被害者側であったり、不幸中の幸いということがあります。
その瞬間からしばらくの間は、よかったという思いを抱くかもしれませんが、それだけで終わってしまうのが常です。
なぜ、大変なことにはならなかったとしても、そういう状況に出会ったのかということまでは考えません。
考える方がおかしいのかもしれませんが(多数決で考えると確実に少数派ですよね)、考えなければならないのかもしれません。
つまり、そういうギリギリの状況や不幸中の幸いという出来事が、何かしらの警告である可能性もあるのです。
今回はこの程度で済んだけれど、次は危ないかもしれない、という怖い話です。
もちろん、全てがそうではありませんから、ビクビクすることはありません。
ただ、なぜなのか、という点は、人によっては考えるべきなのです。
どんな人が?
それが明確ではないため、少なからず「自分のこと」として聞いてほしいのです。
人の心というものは、いくら冷静であろう、正しくあろうとしても、その時々で変化するものです。
理想としては一定の心を持つべきであっても、そうはいかないのですから、仕方がないのです。
しかし、常に自分の心のあり方について考えることはできます。
今日の自分を振り返り、心のあり方、行動等を顧みることは誰にでもできるのです。
そういうことをすっかり忘れてしまっていると、考えさせようとする作用が働くことがあるのです。
その一例が、事故なのです。
心のあり方以外にも様々な要因によって事故は起こるものですが、少なくともギリギリセーフという場面に居合わせたからには、気を引き締める時なのです。
冷静さを意識し、小さなミスをしないように心掛け、小さな落とし穴に嵌らないように気をつけなければなりません。
さぁ、気を引き締めなおしていきましょう!
人間、その日その日の心の色を表現しながら生きています。
それ故に、その日その日で一定しない結果が現れるのです。
一定しない心の色、その奥には真の心が誰にでもあるのです。
しかしそれを覆い隠しているのです。
子供から大人になっていく過程で、この世の矛盾に対応できなかったり、また己の至らなさを隠そうとしたり(意識はなくても)、様々な理由から自分の殻というものを作ってしまうのです。
生きる術として、と言えばそうかもしれませんが、結果として、自分を誤魔化してきたのです。
誰の心の中にも、一つの光があったのです。
それを思い出し、再度光を灯す事ができるのか、それが自分との戦いなのです。
子供が大人から見れば笑うほどの夢を持つのは、それが実現可能であることを知っているからです。
しかし成長する中で、実現可能だと思っていたものに対して、可能にするまでの努力や諦めない気持ち等を維持できない己に甘えてしまうのです。
そして信じて疑わなかった夢でさえも、笑い飛ばす事で己の納得させようとするのです。
それが悪いとは言いません。
しかしそれで納得できるのかと問うのです。
人生は己の納得、満足感。
他人から見ればつまらない人生であったとしても、己の納得、満足があれば、それで良しなのです。
むしろ、他人の人生をあれこれと言うだけの人間よりも、より人間らしく生きたのかもしれません。
評価は他人がするものですが、その評価だけで人生を語る事はできません。
心に一つの光を灯し、己の行くべき道を歩んでいく事。
死に際に、「納得できたぞ」と旅立てるかどうか。
己の人生の結果はその時にしか判らないのかもしれませんね。
その時には何もできませんので、そこにたどり着くまでに思いを残す事無く、必死に生きていくしかないのです。
ふと自分の人生に虚しさを感じる、そういう瞬間に自分は岐路に立っているのです。
その虚しさへの対処法を間違えると、違法なものへ手を出したり(たとえば麻薬など)、精神的に落ち込んでいったり、全てを捨ててしまうこともあるかもしれません。
虚しさを埋めようと、スリルを求めることもあるかもしれませんね。
何がその虚しさの奥にあるのか、それに気づくことが重要になります。
時とともに、そんな虚しさを感じた自分を忘れて、今までのように生活していくこともありますが、それは問題を解消したわけではありません。
まずは、なぜ虚しさを感じるのか、その根本を知らなければなりません。
人によっては、人生が充実したものではなくても虚しさなど感じない場合もあります。
逆に、人生は充実しているのに、突然虚しさを感じる場合もあります。
以前書いたことがありますが、人間には「魂」というものが宿っています。
この「魂」は、輪廻します。
俗にいう「生まれ変わり」というものは、魂が「宿り変わる」ものなのです。
魂の前世、それが人間に大きく関わることはあまりないのですが、どんな人に宿っていたのかによって少なからず影響はあるのです。
人間は自分に宿っている魂を成長させる役目があるのですが、前世で大きく成長させてもらった魂を持つ人などは、大きな影響が考えられるのです。
先ほどの「虚しさ」も魂が関係していると考えられるのです。
難しく考えなくても、「生き甲斐」という言葉を知っていますよね。
その「生き甲斐」というものに似ていると考えてください。
人生は充実している、でも虚しさがある、とすれば、それは「生き甲斐」がない、または「生き甲斐」というものを捉え違いしているのです。
この辺りは人によって違いがあるので今日は詳しくは書きません。
では、虚しさを感じないのは、魂の成長がないから、または「生き甲斐」を捉えられているからなのか。
そういう場合もあるかもしれませんが、多くの場合が「現実だけ」に生きているからでしょう。
これもまた意味が分かり難いかもしれませんが、魂とか生き甲斐とか、そういうものとは無縁の生き方をしているということです。
虚しさで悩むのか、無縁で楽しく生きるのか、と考えると、大抵の方は後者を選ぶのではないでしょうか。
それもまた人生であり、その道を進むのもよいでしょう。
しかし、前者を捨てられない、つまりは「なぜなのか」という疑問への答えを探そうとする方もいらっしゃると思います。
そういう方は、まずは「魂」という存在を自分自身に教えていくことです。
あるの?ないの?というのではなく、「ある」と強く認識することです。
虚しさ、それは自分が感じているものであっても、自分が発しているのではなく、魂が発しているのです。
時とともに忘れたとしても、発した存在があなたの中にある限り、問題解決ではないのです。
無理に魂や生き甲斐について考える必要はありませんが、考えたい、知りたいと思う場合は、その気持ちをないものとしないでくださいね。
よくわからないかもしれませんが、突然虚しさを感じたということがあれば、ぜひ相談してください。
仕事や私生活の中で、自分に与えられた役割というものがあるでしょう。
それは誰かがやらねばならないことで、たとえ自分がそれをやりたくないと思っても、役割である以上はやるしかありません。
やりたくない、この中には、ただ面倒だからというものもあれば、なぜ自分が…という卑屈な気持ちになるものもあるでしょう。
どちらにしても、与えられた役割であろうとも、そこに自分の感情(嫌だという類)をぶつけていくと、回りまわって自分に返ってきます。
つまりは、与えられた役割でさえも、全力で、誠実に向き合えないということは、何をやっても満足な結果は得られないのです。
どんなことでも、そこに誇りを持てるような考え方がなければ、物事はうまくは回らないのです。
それがこの世の仕組みなのです。
面倒だろうと、(自分では)恥ずかしいと思うようなことだろうと、やるからにはプラスに考えて、またそれに伴う行動を取ることです。
嫌だ嫌だと思おうと、役割なのですから、それを全うするのみ。
逃げ出すことができたとしても、それはその役割から逃げただけであり、この世の仕組みから逃れたわけではないのです。
あなたの周りにも、思い当たる方がいらっしゃるのではないでしょうか。
もしそれが自分自身であるのならば、今こそ、考え方を転換するチャンスですよ。
様々なケースがあり、一見当てはまらないように思えることもあるかもしれません。
しかし、どんなケースであろうとも、そこに自分がいるということは、その自分が変化することが一番大切なのです。




