Bonds with a soul

Bonds with a soul

胎児は母親とへその緒で繋がることでその命を繋いでいます。
この世へ誕生すると共に、その繋がりは切られてしまいます。
そこから先、私たち人間は、新たなる何かに繋がらなければなりません。
それは、自分の魂ではないか、と思うのです。

 

日々の暮らしの中で、ほんの少し好奇心を持つだけで、同じような毎日がまるで違って見えることがあります。

起きている出来事は何も変わらなくても、自分が何かに気づいた瞬間、その景色はまるで別の世界のように映る。

そこからどう動くかによって、未来という名の「結果」も少しずつ変わっていきます。

人は、単調な生活にどこか物足りなさを感じることがあるものです。
いわゆる「スリル」を求めて、時には痛い思いをすることもあるでしょう。

けれど、危険を冒さなくても、ほんの小さな好奇心を持つだけで、目線が変わり、日常に新しい風が吹き込むことがあります。

 

決めたことを、地味に見えてもコツコツと続ける。それは一見目立たないけれど、本当に大切な力です。

時間も同じです。今日がいきなり明日になるのではなく、一秒、一分と積み重なって明日が訪れます。努力もまた同じで、続けることでしか形になっていきません。

人はどうしても「楽な道」を選びたくなってしまうものです。しかし、楽をして得られるものは一時的だったり、どこか薄っぺらかったりすることが多いです。

だからこそ、あえて言いたいのです。

地味を笑うな。地味を侮るな。

たとえ一歩ずつでも、365日積み重ねれば、必ず今とは違う景色の場所に立っているはずです。コツコツは地味ですが、未来を変える一番の近道なのです。

 

「真剣になる」とは、一体どういうことなのでしょうか。

ある人にとっては、呼吸をするように自然にその境地へ入れるものかもしれません。一方で、どれだけ頑張っても、なかなか辿り着けない領域だと感じる人もいるでしょう。

正直なところ、私自身も「さあ、今から真剣になろう」と思っても、それがどのくらいの“真剣さ”なのか、いまいち掴めずにいます。真剣さにグラデーションがあるのか、それともゼロか百か、まるで定規で測れるものではないように感じます。

圧倒的な存在との出会い
少し前、ある神社で忘れられない経験をしました。それは、人間には到底及ばない、いわゆる“神さまの領域”に、ほんのわずかに触れたような出来事でした。

その瞬間、胸の奥から何とも言えない感情が込み上げてきました。圧倒的な力と静けさを前に、自分の存在が限りなくちっぽけに感じられたのです。「畏怖」という言葉がぴったりくる、ただ怖いだけではない、静かで深い体験でした。

この経験は、確かに私の中に深く刻まれました。後日、ある人から「何か変わったね」と言われて初めて、自分自身でもその変化に気づいたのです。

これは個人的な、少し不思議な話かもしれません。でも、誰の人生にも、こういう「触れてはいけない何か」に近づく瞬間があるのではないでしょうか。そして、そういう場所では、自分のすべてをかけた「真剣さ」でしか向き合えないのかもしれません。

もし、そんな日がいつか来るのなら、私たちは日々の生活の中で、一つひとつのことに真剣に向き合う姿勢を少しずつでも身につけていくしかないのだと思います。

 

運が良いとか悪いとか、人はつい気にしてしまうものです。
でも、その“運”とは一体どこから来るのでしょうか。

運には、2つの要素があると考えられます。


持って生まれた運 家系や血筋など、生まれながらにして備わっている運。
この部分は、自分では変えることができないと思われがちです。(実際には変えることはできる)

生きていく中で育まれる運 日々の言動や心の持ち方によって、自分自身が引き寄せていく運です。
こちらは自分の選択や行動次第でいくらでも変えていけるもの。

運については、さまざまな書籍や講演で語られていますし、家庭や地域の教え、身近な人の生き方からも多くを学ぶことができます。

だからこそ—— 「運が悪い」と嘆く前に、自分の中でできることはたくさんあるのです。

言葉の使い方、ふとした思いやりの行動、小さな習慣の積み重ね——そういったことが、いつしか“運”という形で自分に返ってくるのかもしれません。

 

人はうまくいかない理由を、つい他人のせいにしてしまいがちです。
でも、もしそのクセを誰かに指摘されたとしたら——それはチャンスです。
なるべく早く、その考え方を見直すことをおすすめします。

うまくいった時は「自分のおかげ」、うまくいかなかった時は「他人のせい」。
そんな考え方は、一見すると楽に思えるかもしれません。
でもそれは、さらにうまくいかない未来への入り口になることが多いのです。

本当にうまくいかない原因は、常に自分自身の中にあります。
いくら「他人のせい」と思い込んでも、それが事実でない限り、未来の方向性は見えてしまいます。

だからこそ、考え方を変えてみませんか?

「うまくいかないのは自分のせい。うまくいったらみんなのおかげ。」

このように視点を変えてみると、不思議なくらい物事がうまく回り始めます。
成功への道は、謙虚さと感謝の心とともにあるのです。
そして「みんなの中」には、あなた自身の魂もしっかり含まれていますよ。

 

こんにちは。

2025年となり初めての投稿です。

昨年の更新もボチボチでしたが、お付き合いいただきました皆様、ありがとうございました。

本年もボチボチになるとは思いますが、よろしくお願い申し上げます。

 

 

さて、久しぶりの更新ですので、私の昨年末のお話を。

 

とある神社に行ったのですが、そこから海と対岸の山が見えます。

そこで私は海や山を「見」ました。

確かに「見」て、そこには当然海と山があります。

それ以上でもそれ以下でもありません。

 

その後、一緒に行っていた方とお話をし、色々と気づかされました。

日常に流され、本来の自分ではなくなっていたのです。

 

割愛しますが、他にも色々とあり、改めて周りを見回してみました。

 

すると、先ほどは海や山が「ある」という認識でしかありませんでしたが、そこには波や海流によって色味の違う海があり、木々の種類によって様々な緑色をしている山があったのです。

 

本来であれば、そういう細かいところに気づく自分があったはずなのに、気づかない自分になっていたのです。

 

 

これは誰にでも起こることです。

日常という当たり前の生活に流され、本来の自分から遠ざかってしまうのです。

自分一人でそこから抜け出すのは難しいかもしれませんが、まずはそういうことが起こるということを知り、認めていくことです。

 

人は変わることができるのか、できないのか。

よく話題になることですが、答えは簡単ですよね。

変わることができる人は変わるし、変わることができない人は変わらない、それだけです。

根本的には変わらない部分(これは変わってはいけないという意味)があり、その上に様々な自分があって、その様々な部分の自分がどうあるのか。

桃で例えるなら、変わらない部分が種、様々な自分が実として考えてみましょう。

実の部分はその成長の過程でも変化すれば、外的な刺激で変化することもあります。

ただ、どういう状態であっても桃には変わりありません。

人も同じで、どういう自分であっても、自分以外ではあり得ないのです。

変わる、変わらないではなく、どういう自分でありたいのか、ということが重要です。

求める自分になるためには、どういう風にすればいいのか、その過程で変わっていくだけの話です。

ですので、求める自分に一歩一歩でも近づいていけば変わるでしょうし、何もしなければ変わらないでしょう。

そして人は元来怠け者ですから、変わらないことが大多数で、その結果として「人は変わらない」とも言われるのかもしれません。

 

信号のない横断歩道で小学生を見かけ、車を停止させました。

小学生はサッと渡った上に、私に向かって「ありがとう」という感じで頭を下げたのです。

横断歩道で歩行者がいれば車は止まるのが義務です。

そういう意味では歩行者は道を譲ってもらう権利があるわけです。

権利なのですから、堂々と渡ればいいという考え方もあるでしょう。

しかし、義務とか権利とか、そういうものは生きていく上での知恵として生まれたわけで、それが全てではありません。

お互いに気持ちの良い一瞬を過ごせたこと。

権利を振りかざすわけではなく、グズグズと義務を果たすわけでもなく、そこに相手が存在するのならば、自分はどう考え、どう行動するのか。

最近では「権利」ばかりを主張して、それの言葉の上に胡坐をかいているような考え方の方も少なくありません。

「当たり前」という感覚で生きていくと思わぬ落とし穴に落ちますので、謙虚さを忘れないように…

 

最近また「因縁」を原因とする様々な出来事が生じているようです。

以前書いたことがありますが、再度因縁に関してここに記しておきます。

 

 

家系というものは、そこに代々引き継がれるものがあります。

それは資産等だけではなく、因縁と言ったら言葉が悪いかもしれませんが、良くも悪くも人が生きた証というものが脈々と受け継がれていきます。

離婚ばかりする家系、女性または男性だけが生まれる家系、あまり長生きしない家系、逆に家庭円満な家系、長生きする家系、良い面もあれば悪い面もありますが、その要因は生活環境だけとも言い切れないものがあります。

もちろん、生活環境(しつけ等)も大きく影響しますよ。

人が生まれ、生きて、亡くなって、この世からいなくなったように思えても、人が生きた証は残ります。

それは子孫だけを指すのではなく、亡くなった人の残した思いであったり、果たせなかった夢であったり、「思い」というものが次の世代、またはその次の世代へとバトンタッチしているのです。

それが良い方に出れば問題はないのかもしれませんが(ただし考えなくていい訳ではない)、悪い方に出れば、それは悲惨な事です。

これは偶然ではない、何か片付けなければならない事があるかもしれない、と思っても、そういう弱味につけ込んだ商売もありますから、無闇に誰かに相談もできない、と迷うのでしょう。

まずは、知る事です。

今、自分がここに存在するのは、多くの先祖の存在があり、また何かしらの意味があって存在を許可されたのです。

過去に何があったのかは今となっては判りませんが、報われないものがあったのだと認めることです。

あとは、自分の生まれでた意味を掴んでいく事です。

全ては今の自分に掛かっているのです。

今の自分がいかに生きるのか、それを真剣に考え、掴もうと努力する(努力とは続ける事)事ができるのならば、脈々と受け継がれてきた因縁に対して、一筋の光を射すことも不可能ではないのです。

 

久しぶりの更新です。

虎山堂より引き継ぎ、一年以上が経過しました。

毎日何かを書いていこうとは思っておりますが、なかなか難しいものです。

あれこれと頭の中に浮かんでは消え…を繰り返しております。

それでも毎日が過ぎていく、これが恐ろしいところです。

何もしなくても、お腹は減るし、眠くはなり、そして一日は過ぎていくのです。

これを繰り返して、人生となり、気づけば思ったようには動けなくなり、あぁ年をとった…と人生は終わるのでしょう。

動けるうちに動くこと、これが大切なのでしょうね。

今少しでもやりたいことがある方は、動けるうちにやってみることです。

思っているだけでは何もなりませんが、行動してみれば何かしらの結果が出ます。

思ったような結果ではなかったとしても、それを踏まえてまた動き出せばいいのですから。