2012年1月19日、アップルのフィル・シラー上級副社長は、教科書とカリキュラムを「再発明」したと発表した。
この発表はおおむね好意的に受け取られ、翌日の報道では「アップル、教科書を再発明」の見出しが躍った。私はiBooks Authorのハイパーカードライクな感じには懐かしさを覚えたが、「再発明」という表現には多少引っ掛かりを感じた
。
一般に抵抗感なく受け入れられたのは、「教科書の再発明」が、事前に予告されていたためだ。公式伝記『スティーブ・ジョブズ』の著者ウォルター・アイザックソンが、ニューヨークタイムズの2011年11月のインタビューでジョブズが生前「再発明」を考えていたものとして、教科書、テレビ、写真の3つを挙げていた。
アップルはさまざまなものを「再発明」する企業だと思われている。iPodで携帯音楽プレイヤーを、iPhoneで携帯電話を、iPadでタブレットPCを「再発明」し、今回はiBooks2+iBooks Author+iTunes Uで教科書の「再発明」を成し遂げたかと考えている人は少なくないだろう。
「再発明」、reinventingという言葉は、スティーブ・ジョブズに使用される以前は、否定的なニュアンスで受け取られることが多かった。「車輪の再発明」という慣用句があり、すでに確立されている技術や解決法があることを知らないで、同様のものをもう一度最初から作ることの非効率さを指す。特にIT業界ではプログラミングに関してよく用いられるため、ジョブズも「車輪の再発明」は当然知っていただろう。
つまり、ジョブズの言葉のなかで「再発明」が使用される場合、「これは車輪の再発明ではないよ」という強調の意味合いが追加されていると考えるべきだろう。それだけ自信のある製品だという言外の含みがある。
ジョブズはプレゼンテーションのなかで「再発明」を連発しているわけではない。2007年1月9日のiPhoneの発表で「今日、アップルは電話を再発明します」と語ったのが最初で、その次に使用したのは2010年のiPadの発表時に、2007年にiPhoneで電話を再発明したと振り返っているに過ぎない。
つまり、ジョブズが「再発明」を使用したのはiPhoneに対してのみであって、携帯音楽プレイヤーやタブレットPCを「再発明」したとは言っていない。伝記のなかでは新しいテレビの発明(create)への意欲は語っているが、これも「再発明」ではない。
さて、アップルの製品やサービスのエンドユーザーである我々は、アップルのいう「再発明」を、どんなことだと捉えているだろうか? 「再発明」という言葉が意味するのは、すでにあった製品をほかの技術と組み合わせて新しい製品にするといったところだろう。林信行氏の著書に『ジョブズは何も発明せずすべてを生み出した』(青春出版社)があるが、このタイトルのような意味を「再発明」と捉えている人が多いのではないだろうか?
新しいモノを発明するのではなく、既存の技術を集めて真に素晴らしいパッケージにすることが「再発明」なのではないかと。もちろんアップルの独自技術もたくさんあるのだが、「再発明」という言葉を思い浮かべるとき、私たちはそれを忘れているか無視することで、無から有を作り出す魔法じみたことがらを憧れとともに想像している。しかし、ジョブズはもっと狭い意味でしか「再発明」という言葉を使用しないだろう。乱発すれば当然、言葉のインパクトは薄れる。ジョブズは各プレゼンテーションで、メインとなる製品については別々のアプローチで紹介してきた。
だから、私はアイザックソンのインタビューのなかの「再発明」という言葉が、本当にジョブズの口から語られたかどうかを疑問に思っている。あるいはアイザックソンが「発明」といったのをニューヨークタイムズサイドが「再発明」に言い替えたのかもしれない。
今回の「教科書+カリキュラム」の提供システムを否定するわけではないが、シラーのプレゼンテーション中の「再発明」は、生前のジョブズに聞かされていたというより、アイザックソンインタビューの尻馬に乗った使用なのではないかという気がしてならない。ジョブズだったら、今回の発表を「再発明」とは呼んでいないと思う。何か別の新しいインパクトのある表現を使うだろう。
ジョブズを失ったことで、アップルのプレゼンテーションプレイヤーを不安視する声が聞かれたが、安易なキーワード選択に基づくメッセージが繰り返されるようだと、確かに今後のアップルが大丈夫なのかと首をひねりたくなる。



