■最後のさよなら■ 第7回
*********************************************************************************************** 二〇〇〇年 マンハッタン・冬
<06>
![]() |
▲「マンハッタン炎上計画」さんの画像 |
シカゴを経由して到着したラガーディア空港はまとわりつくような湿った雪が降りしきっていた。この雪のせいで、国際線が到着するジョン・F・ケネディ空港から回されてきた便がかなりあったようだ。寒い寒いと連発している南米から到着したばかりらしい半袖姿の団体旅行客や、動物愛護団体が見かけたら目を剥きそうな毛足が長い毛皮に包まれた背の高いブロンド女性、両手に重そうなアタッシェケースを持って、どうやってスーツケースを取ろうかと迷っているでっぷりとした初老のビジネスマンなどでバゲッジクレームは溢れかえっていた。
私が乗ってきた便が到着したのは、定刻よりも一時間以上遅れた夕刻で、ちょうどビジネスアワーを過ぎた帰宅時間だった。ラガーディアからマンハッタン島までは大した距離ではなかったが、ただでさえ気温が低い夕刻の雪の中を長い列に並んでイエローキャブを待たなければならないというのはどうにも気が重かった。
回転式の荷物台からスーツケースを引きずり降ろし、さてこれからどうやって予約してあるホテルに向かおうかと考えていると、後頭部の上の方から野太い声が降ってきた。
「ミスター・クサナギ?」
「イエス」
返事をしながら振り返ると、頭を短く刈り込み、黒いタートルネックの上に黒いジャケットを着て、日も暮れているのに墨を塗りたくったような黒いサングラスで目を隠した黒人の大男が私を見下ろしていた。二メートル近い上背で、ただでさえサングラスのせいで表情は読めず、チョコレート色の顔には感情が無かった。
「私はバート・キング。ミスター・リーがお待ちです」
「ジョニー・リーのことかい?」
「イエス」
一言だけ答えると、男は私の大柄のスーツケースを二つとも軽々と持ち上げ、太い首を五度ほど角度をつけて前方を指し示して歩き出した。どうやら私に付いてこい、ということのようだった。
私はコートの襟を重ね合わせ、バートという黒人の後を追った。ターミナルの建物を出ると雪はいっそう激しく吹雪いており、家路につくためにタクシーやシャトル便を待つ長い列ができていた。
バートは二、三度歩く方向を変えた程度で、雪が吹き込んできて滑りやすくなった歩道を革底の靴で慣れた様子で歩いていった。タクシー乗り場の先に停車した真っ黒いリンカーンのトランクを開けると、スーツケースを投げ入れ、後ろのドアを開いて私に乗るよう促した。
どうやらバートはジョニーが送って寄越したリムジンの運転手のようだった。車のサイズは結婚式やパーティに乗っていくようなストレッチ・タイプのリムジンではなかったが、タクシー代わりに使うには一般的なサイズのリモだった。到着した後で法外な料金を吹っ掛けてくる可能性がないとは言い切れなかったが、私の名前を知っていたのだから、白タクではないだろう。体格のよい肉体を黒いスーツに包み、黒いサングラスで表情を隠しているところはナイトクラブのボディガードかNBA選手のようで、リモの運転手と言われればそう見えないこともなかった。制帽をかぶっていないことと、白シャツにブラックタイを結んでいないことが私の持つリモの運転手のイメージとは違ったが、近頃では帽子をかぶらないのが流行りなのかも知れなかった。車に乗り込むと、革シートの後ろからは、すすり泣くようなサキソフォンの音色が静かに流れていた。
「ジョニーはずいぶん手回しがいいね。便名は教えておいたがリモが迎えが来るとは思わなかった。飛行機が遅れたから待たされたろ」
「大したことはありません」
バートは筋肉が浮き上がった肩を微かにすくめて、私をリムジンの広い車内に押し込んでドアを閉めると、運転席に乗り込んだ。彼の体重でガクンとリンカーンが沈み込んだ。
リンカーンは、道を舐めるように巨体を滑らせ、雪の中をマンハッタンに向かった。
「ずいぶん道が混んでるみたいだね」
マンハッタンに向かう道路は、島から逃げ出すように渋滞が続いている反対方向に比べるとずいぶん空いていたが、それでも時折スピードを落とさなければならなかった。
「ご心配なく」振り返りもせずにそう言うと、バートはしばらくして高速道路を降り、一般道を走り始めた。
窓の外の町並みはひどく寂れ、あちこちの壁にはスプレーで塗りたくった落書きが描かれていた。窓という窓には鉄格子がはまっており、お世辞にも平和な街という雰囲気ではなかった。街を歩く人の姿には白人は見られず、買い物をしたり、道端に佇んでいるのは黒人やヒスパニックばかりだった。
「ハーレムですよ」
私が窓の外を目をやっていることに気が付いたためか、バートは自分から話しかけてきた。サングラスに隠された視線が私を観察していることが、バックミラー越しに見て取れた。
「昔、来たことがある。アポロシアターでゴスペルを聴いた」
「どうでしたか」
「ジャズでなかったのが残念だった。ぼくはマイルス・デイヴィスのファンなんだ」
バートは鳩のようにクックックッと喉を鳴らした。どうやら、笑っているらしかった。「今度、最高のジャズをお聴かせしますよ。お望みならね」
「楽しみにしておくよ。ここはニューヨークだからね。最高の演奏が聴けそうだ」
「それほどでもありませんがね」
バートはそれきり口を開かなくなり、音楽を止めてラジオのスイッチをひねった。
鼻にかかったようなしゃべり方をするアナウンサーが早口でニュースを読み上げていた。「・・・紙が実施した最新の全米世論調査によれば、共和党では大統領選に出馬を表明しているキンボール・マクミラン下院院内総務が他の候補に大きく差をつける四二・三パーセント、カリフォルニア州のレナード・スタイン知事が三二・五パーセント、ニューヨーク州のローレン・オニール上院議員は二五・二パーセントの支持を得ています。ただ、先ごろ行われたニューハンプシャー州の予備選では共和党のオニール上院議員が他候補を上回る得票を得ており、今後本格化する予備選の行方が注目されます。一方、ハーヴェイ大統領に続く政権維持を狙う民主党は、ジェフリー・ゴードン副大統領がケンタッキー州のアラン・クック知事に大差を付ける五四・三%の支持を得ています。続いてウェザーレポートです。北東部を襲った寒波の影響で航空便には大幅な遅れが・・・」
バートはフンと鼻を鳴らすと、「くだらん」と呟き、ラジオの電源を切った。
リンカーンはハーレムを走り抜け、雪で真っ白に染まったセントラルパークを斜めに突っ切り、ミッドタウンのネオンが煌めくブロードウェイを南へ下っていった。隙間無く立ち並んだビル群にただでさえ空が小さく切り取られているマンハッタンは、降り続く雪ですっかり白銀のドームに覆われてしまったようだった。
![]() |
| ▲(c) FreeFoto.com |
マジソンスクエアガーデンの巨大なドーム脇を抜けてダウンタウンに向かう頃になると、ネオンサインにハングル文字が混じるようになり、やがて漢字だらけの看板が目立つように変わっていった。チャイナタウンとリトルイタリーを分ける境界になっているキャナル通りから一本脇に入ったところで、バートは車を停めた。
「着きましたよ」
バートは車を降り、後部座席に回ってドアを開いた。
ヒュンと冷たい空気が吹き込んできて、私は身震いした。雪はいくぶん小降りになっていたが、厳しい寒さであることは変わりがなかった。
リンカーンを降りて前を見ると、一階に漢字で名前が書かれた銀行の支店が入っている小ぎれいな建物があった。背の低い建物が多いチャイナタウン周辺では一際高く、ミッドタウンのビジネス街にあってもおかしくなさそうな建物だった。
バートに促されて回転ドアを抜けると、黒髪をポニーテールにまとめた若い女性が中央の受付カウンターの向こうに座っていた。
私がカウンターに近づくのを制して、バートが一言二言話しかけると、内線電話でどこかに連絡を取り、再びバートにこそこそとしゃべりかけた。
そして、私の方を向くと「ようこそ、ミスター・クサナギ。リー社長がお待ちです」と言って、にっこりと微笑んだ。
中国人は愛想笑いなどしないものと思っていたが、彼女の笑顔は日本の女性にはとても真似できそうもないほど素敵なものだった。ここを訪れた誰もが恋に落ちてしまいそうな笑顔だった。よほどこの仕事で高給をもらっているに違いない。
私はバートの後をついて、カウンターの奥にあるエレベーターホールに向かい、一番奥のエレベーターに乗った。扉の横には最上階から十階下辺りまでしかボタンがない高層階専用エレベーターで、バートはポケットからクレジットカード大のプラスチック製キーを取り出すと、開閉ボタンの下にある差し込み口に差して、最上階のフロア・ボタンを押した。
どうやら、これから会おうとしている人物は、私が知っているジョニー・リーよりもはるかに重要人物らしかった。何しろ専用エレベーターで、専用のカードキーが無ければ近づくこともできないのだ。セキュリティにはことさらうるさいマンハッタンでも、厳重に守られた人物だった。
マンハッタンには古い建物が多く、エレベーターはガタピシ動き出して、ガタピシ停まるのが当たり前だが、私たちが乗ったそれは、鳩の羽根がそよ風に吹かれるように舞い上がり、そっと地面に落ちるように静かに停止した。相当に猛スピードで上昇したはずだったが、聞こえたのは微かな風切り音くらいだった。
チンという音が鳴ってドアが開くと、二階分ほど天井をぶち抜いた大きな空間にカウンターが置かれ、向こう側に座った中国人の受付嬢が顔いっぱいに笑みを浮かべてお辞儀をした。
女性は立ち上がり、「ミスター・リーがお待ちかねです」と言いながら、優雅な身振りで翻って、私を手招きした。
彼女が着た紅いチャイナドレスの切れ目からほっそりとした脚が覗いていた。
前方にオーク製の上等な扉があり、金色の取っ手を押して重そうなドアを彼女が開けると、上等な調度品が置かれた部屋があった。
![]() |
▲「マンハッタン炎上計画」さんの画像
|
「遅かったね。待っていたよ」
ジョニーは遠目でも上等な仕立てであることが分かる黒いスーツを着ていた。髪を整髪剤で固め、すっかり企業の幹部然としていたが、悪戯っぽい光を目の奥に浮かべる仕草はサラエボで会った時とまるで変わっていなかった。あの日以来、半分近くが白くなった髪の毛も、サラエボの市場で砲弾に切り取られた頬の傷もそのままで、笑うと口元が皮肉っぽく歪んだ。
「すまなかった。飛行機がなかなか着陸できなかったんだ。シカゴは大雪だった。それに君が迎えを出してくれるとは思わなかった」
「君を驚かせたかったんだ」
ジョニーは大きな机を回ると、黒い革手袋をはめた右手を差し出した。私が彼の右手を握らずに見つめているのに気が付くと、口元を歪めて笑った。
「あの時のままさ」ジョニーは手袋のまま私の右手を握り、左腕を回して抱擁し、パンパンと背中を叩いた。
「懐かしいね、ケイスケ。君は全然変わっていない」
「君はずいぶん変わったよ。出世したみたいだね」
ジョニーは再び皮肉そうに口元を歪めた。「ふふん。確かに大した出世さ」
「満足していないみたいだね」
「そんなことはないよ。まあそんな話はどうでもいい。食事にでも行こうじゃないか」
ジョニーは窓際のハンガーに吊るされたツヤツヤした毛並みのコートを取って羽織ると、ドアの横の壁に寄りかかってポケットに手を突っ込んでいるバートに目をやった。
「やあ、バート。わざわざすまなかったね。後はぼくが彼を送っていくから、もういいよ。ありがとう」そう言うと、頭一つ分高いところにある大男の黒人の肩をポンポンと叩いた。
バートは無表情に肩をすくめると、「イエス・サー」と言った。
***********************************************************************************************
- 著者: 吉田 ルイ子
- タイトル: ハーレムの熱い日々―BLACK IS BEAUTIFUL
- 著者: 植草 甚一
- タイトル: ハーレムの黒人たち



