「岸壁の母」は昭和29年10月に菊地章子さんが歌われ、その後、
昭和47年に二葉百合子さんが歌われて爆発的な人気をよんだ歌。

切々とした母の心情を歌ったこのメロディのモデルとなったのは東京の端野いせさん。

昭和25年1月 ナホトカから引揚船が舞鶴へ入港して以来
船が帰る度に東京から舞鶴へかけつけ 桟橋に立って 息子さんの姿を探し求めた。

その姿がマスコミの目に止まり作られたのが「岸壁の母」

当時 東京ー京都間は急行列車で一晩がかり。
さらに京都ー東舞鶴間は普通列車で約4時間。

大変な旅であったにも関わらず端野いせさんは通い続けた。

もちろん、岸壁の母は端野いせさんだけでなく他にもたくさんいた。そして歌にはならなかったものの「岸壁の妻」と呼ばれる人もたくさんいた。

 






~岸壁の母~  端野いせの手記より

昭和25年の1月も半ばをやがて過ぎる頃 雪と氷に閉ざされたソ連の港ナホトカから祖国のために命をかけた同朋を乗せ 第一次引揚船・高砂丸が戻って来た。

その船に新二の姿はなかった。
そして第二次引揚船・興安丸。でも新二は帰って来なかった。
12月…第三次の船にもやはり姿は見えなかった。

ちぎれるまで打ち振った日の丸の旗もいつか切れ切れに風と波との彼方に消えた…




「今度もあのこの子は帰らない。
はい、それは新聞にも名前は載っていませんでした。でも偽名で帰る人もあると聞きました。
でも やっぱりあの子は… 帰らない…新ちゃん!」

「決して未練ではありません。お召しを頂いて満州へ渡ったあの日から… 息子よ、立派に御奉公してくれよ、手柄を立てて大陸の土になるんじゃ!と覚悟でお国に捧げました。
あの子も誓って行きました。

……でも戦争は終わった。
戦争が終わったら昔のままの母と子です!
たとえ便りはなくても私が生きている限りあの子はきっと生きています。死にはしません!

「お母さんただいま!」と元気な姿で帰ってきたら

「御苦労じゃった…」と抱いてやりたい……この細腕の折れるまで……


あぁ、その夢があればこそ 引揚船が着く度にこの舞鶴へ来るのです。
なのに、あの子は帰らない…

といってどうして忘れる事ができるでしょう…
姿の見えぬ岸壁に涙こらえて トボトボと…すがった杖を筆にして
我が子よ!端野新二よ!と泣いて書いたも幾度か… (涙)






取り乱してお許しください…

でも よくお聞き下さいました。
私は端野いせと申します。連れ合いはあの子が6つの時に死にました。
夫の百ヶ日に…まだ2歳になったばかりの娘…新二の妹も死にました。
天にも地にも たった2人になりました。

それから今日まで私一人で育てて来たのでございます。

優しい子で… 神田の大成中学を卒業した時 私の前にちゃんと座って…畳の上に手をついて…

「お母さん、長い間、御苦労をかけました。
小学校の時、父なし子とからかわれた時は悲しかったけど、僕のために再婚の話を何度も断って 針仕事をして働いて… その忙しい中で僕をひがまないように育ててくれた…。
だから僕は卒業出来たんです。柔道も剣道もキャプテンになれたんです。
ありがとう… お母さん本当にありがとう。
でも もう心配はいらないよ。僕、一生懸命やる!大学だって入ってみせる!僕のために働いてくれるお母さんのそばで勉強すれば合格は間違いないよ!」



そのかいがあったと申しましょうか。
立教大学の経済学部へ入学してくれました。
そして三月(みつき)経った時 戦争はますます激しくなっていました。

そこへ召集が来たのです。



「じゃ、お母さん、僕行ってきます。長い間 本当にありがとうございました。ひがまないように育ててくれて 僕 感謝してるんだ。 
それにね お母さん、これからは一人なんだから いくらデパートから無理を言われても1日に袴を二枚も縫うような そんな無理はしないでよ。 それでもやっていけるでしょう? 
そうして… いつまでも お元気で… じゃ…さようなら…」



それから間もなく 東京駅から満州へたちました。

2ヶ月くらいたって配達された軍事郵便…

手にした時は まるで満州の吹雪の音が聞こえるようでした。


「母上様 同封にて写真をお送り致します。
お受け取りください。
元気な姿でしょう? 御安心ください…… 東京も大変そうですね。
この冬はどうですか?こちらは零下20度を越す厳寒で雪は凍ったまま春を迎えるそうです。
でも 風が出て 雲が流れる時は 白い丸い月がまるで空に張りついたように出ています。こんな夜はいつもお母さんが徹夜で縫い物をする慈母観音のような姿がまぶたの底に映るのです。……すると 無性に会いたくなって 雪の大地に飛び出して……悠々流れる牡丹江の岸辺に立って 東京の空を偲んで…
お母さん!お母さん!お母さん!… と叫んでしまいます…」




ああ!新ちゃんの声が聞こえる! 私だって会いたい。…新ちゃん!待ってておくれとかけ出したガード下。

私はあの子の手紙をぎゅっと握りしめて

「新ちゃん!新ちゃん!!新ちゃん!!」と喉の裂けるほど呼んだのに 電車の音が私の声を消すのです(涙)



それからも引揚船の来る度にこの舞鶴へきましたが… 
貧乏暮らしで宿代の工面がつかず 日帰りをしたことも一度や二度ではございません。

思い出しては泣き… 思い出しては泣き…

写真に供えた影膳に「新ちゃん、さ、おあがり…あんたの好きなお野菜よ…」

…そう言ったら写真が動いて見えた…(涙)

…あぁ、帰ってくるはず、帰ってくるに違いない、と胸に手をあてると …物音が… あぁ!新ちゃん!!と裸足で表へ飛び出すとそこに見えたのは みじめな自分の影法師…(涙)

ある時は 雨の音にハッとして… 傘をさしていつまでも格子戸の前に立っていた…。
果ては、うちへ駆け込んで仏壇の中へ首をつっこんで、いっそ死んでしまおうかと泣きあかした事も数え切れないほどでした。



そしたら、昭和27年の春の初め、今は熊本にいる新二の戦友の米山猛さんのお話で牡丹江に近いところで新二の部隊が行軍中、ソ連の戦車に遭遇し、12人は散り散りに身を伏せ 新二はどぶの中へ飛び込んだ…

それっきりで あとはわからないと聞きました。

敵の弾に倒れたとか… はっきりしていればあきらめもつきますが このままではあきらめきれません……

それが、どうでしょう!

その日が8月15日、午後3時半頃だとは…(涙)


その日こそ終戦の日なのです(涙)






むごいこと… (涙)

人の生き死にというものはこんなものでございましょうか。

それでも… それでも母はあきらめきれないのでございます。
 


といって、あの子が死んだとは何で思えよ母として…
せめてお金があったならこの岸壁に小屋をたて、ソ連の港ナホトカの空へ向かって声上げて…

「新ちゃん、早く母さんの胸にすがっておくれよ」と 

呼んで叫んでその日まで生きていとうございます。

空を飛び行く鳥でさえ… きっと帰ってくるものを…





あれから10年……

あの子はどうしているじゃろう…

雪と風のシベリアは 寒いじゃろう… つらかったじゃろうと命の限り抱きしめて この肌で温めてやりたい…

その日の来るまで死にはせん。

いつまでも待っている…

悲願十年、この祈り 神様だけが知っている。
流れる雲より風よりも つらい定めの杖ひとつ。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




息子さん、端野新二さんを待ち続けた端野いせさん

昭和56年7月 81歳でその生涯を閉じられました。


端野いせさんが亡くなって、のち…

端野新二さんの現地での生存が確認されました…











また、一説によると現地で新二さんは東京が焼け野原になったことを聞き きっとお母さんも亡くなっていると思い込み帰国しなかったと…


また、帰国を考えた時に 「岸壁の母」で母と自分があまりにも有名になっている事を知り 帰るに帰れなかったとか‥


それでもある時 自分が生きている事をなぜかどうしても知らせたくなり、自分の持っていた短刀を日本の母宛にきっと生きてはいないだろう、いるはずではないだろうと思いながらもなぜか無性に知らせたくなり荷物を送った‥ 


それが端野いせさんは息を引き取った後にいせさんの元に届いた…


血が繋がっているからこそ、の虫の知らせ‥と聞きました。

亡くなってのちに知る母の想い。


ただ‥悲しいです。










戦争の悲惨さが伝わりづらくなりつつある今、しっかりと肝に命じておかなければならないと思います



二度と戦争が起こりませんように。









読んで頂きありがとうございました。