ふと思いついたので 瀬戸大橋のお話を書きます。

長いですがよろしければ読んでやってくださいm(__)m




================================================




瀬戸大橋は岡山県倉敷市と香川県坂出市とを結ぶ、6つの海上を渡る橋と、4つの陸や島を渡る合計10の橋の総称。

正式には本州四国連絡橋 児島坂出ルートという。

単に橋の長さだけだと10の橋の中に含まれる南備讃瀬戸大橋と北備讃瀬戸大橋は
(吊り橋としては)日本で2位、4位の橋。
(明石海峡大橋開通前は日本一の吊り橋でした)




瀬戸大橋のすごい所は 橋の1階部分を鉄道が走り、2階部分を車が走るという道路鉄道併用橋であるということ。

鉄道工学の権威で東京大学の八十島教授の設計により 瀬戸大橋は道路鉄道併用橋として建設されました。

更には、瀬戸大橋は 新幹線を走らせることも可能な、未来を見据えた特殊な構造で建設されています。

世紀の大事業として莫大な費用をかけて建設された瀬戸大橋は 当時の近代工学の粋を集めて作られましたので 半世紀後であってもこのような橋は作れない、と言われています。



















本四架橋を最初に提唱したのは香川県議会議員 大久保じん之丞(おおくぼじんのじょう)でした。



明治22年 香川県丸亀ー琴平間に鉄道が開通した際
この記念式典に出席した県会議員の大久保じん之丞は式典の中で祝辞を述べた。




「鉄道はついた!今度は橋じゃ!橋をつければ讃岐は東西だけでなく南北にも往き来が出来る。さすれば霧の憂いもなくなるであろう!!」


(瀬戸内海は、春になると濃霧が発生してそのために 昔から船の衝突、沈没事故が後を絶たなかった)

 

大久保の祝辞を聞いていた観衆は
「何を言ってるんだ!この大ボラ吹きが!そんな大それた事が出来るものか!大久保じん之丞はバカか!きちがいか!」と。



これに対し大久保は
「この目先しか見えぬ大バカ者どもがっ!!今に見よ!100年もすれば人間が乗り物に乗って他の星へ行くぞ!!」


観衆は 大久保はバカだ!きちがいだ!と大笑い…






その後 1969年にアメリカの打ち上げたアポロ11号が月面に着陸し、月の石を持ち帰り、それが展示されたのは翌年の大阪万博。




大久保じん之丞が言ったことが80年足らずで現実に。

大久保じん之丞がいかに先見の明があったか…




大久保は「将来、絶対に橋は架かる!橋が架かったら道がいる!」


口先だけでなく大久保は多度津から猪鼻峠を越えて阿波池田まで44㎞の道を自ら切り開いたのです(明治23年)


それと同時に各県知事を動かして四国の国道32号線 国道33号線(現在のVルート)も開通させたのです。






















しかし、瀬戸大橋が具体化したのは ずっと後の事でした…


昭和30年5月11日 
国鉄宇高連絡船と紫雲丸が霧深い高松港を出港後 間もない女木島沖で衝突、沈没。

衝突から沈没まであっという間であった為、168名もの死者。



時の中村船長は出来うる限りの救助活動をした後 自ら船長室にこもって鍵をかけ 沈む船と運命を共にした。




168名もの犠牲者のほとんどが修学旅行の小学生と中学生でした…





この事故をきっかけにして時の金子香川県知事は 急遽ありったけのお金をかき集め、
なんとか集まった1500万円で東京大学に本四架橋が可能かどうかの調査を以来。



すぐに調査は開始され その結果、本四架橋は可能!
という結論。



さまざまな問題を乗り越えて 工事着工…そして9年6ヶ月の歳月と1兆1338億円という莫大な費用をかけて完成。

昭和63年4月10日に開通。


大久保じん之丞の提言から まさに100年。

ちょうど100年…

まさに一世紀の夢の架け橋となりました。



















昭和63年4月10日の開通1週間前 

4月3日(日曜日)に開通前の瀬戸大橋で10万人のブリッジウォークが行われました。



本州側から5万人 四国側から5万人。
応募ハガキの抽選に当たった10万人がブリッジウォークを楽しむ中 
土佐・高知から参加した48歳の女性が10万人の一人として 古ぼけた白黒の写真を胸に
一人静かに瀬戸大橋を歩いていました。



昭和30年 この女性は高知県桂浜に近い南海中学の3年生で、 

紫雲丸に乗っていて助かった数少ない生徒の1人でした。









「人の運命というのは不思議なものです。同じ南海中学で同じ船に乗っていたのに、
かたや瀬戸内の藻屑と消えてしまった者…かたやこの夢の架け橋を踏みしめられる者……

運命は大きく分かれたけれど、忘れないで欲しい。この架け橋は私のクラスメイトの犠牲の上に実現したんだから……。そして友よ、あなた方の犠牲の上にこの橋は架かった。
ならば、せめて写真でだけでもあなた方を渡らせてあげましょう…」




彼女は友のために、10万人に1人の権利を得るために毎日ハガキを出し続けて夢を叶えたのです。












時の中学3年生が48歳…

時はこんなに隔てたけれど 橋はやっと実現した。













168名の犠牲者のほとんどが女性、子供、お年寄りの方でした。
内、修学旅行の生徒が約100人…


南海中学の生徒の犠牲者は32名(先生2名)
約70名は修学旅行の小学生。





南海中学と言えば すぐそばが土佐の黒潮おどる桂浜。
その荒波に鍛えられた泳ぎの上手い子供達。


ましてや水ぬるむ5月…。


どうして元気盛りの、それも泳ぎの達者な中学生の子供達がそんなにたくさん死者の中に含まれたのか…







数が多すぎると思いませんか?











昭和30年… ご存じの通り、まだ物の豊かな時代ではありませんでした。

修学旅行の旅立ちにあたり 新しいカバン、新品の水筒、を買ってもらえるのは、ごく一握りの生徒だけでした。

たいがいの子供は、お母さんが隣から借りてきたカバン、隣から借りてきた水筒だったのです。






家を出る時、子供達はお母さんに

「大事なものだから 無くしちゃいけんよ、忘れてきちゃいけんよ」

そう言われて見送られていました。





 

太平洋と言えば だだっ広い、島ひとつ無い 雄大な海。


そして、瀬戸内海と言えば島が数多く点在し、国立公園にも指定されている美しい海…







高松港を出港後、子供達は瀬戸内海の景色を見ようと船に乗るとすぐに甲板に上がった。

ところが濃霧のため衝突、沈没…

あっという間の出来事。









その時、子供達の頭に何が一番最初によぎったか…












おのが命よりも お母さんが隣で借りてきたカバン、隣から借りてきた水筒だったのです…






子供達はカバンや水筒を取りに 急いで船室におりていきました…















……おりた子供は助かりませんでした。














これが今のように物の豊かな時代であったなら 
死なずにすんだ子供たちもたくさんいたのかも知れない… と悔やまれます。




そして、その他のたくさんの小学生の子供たちも そのほとんどが修学旅行の帰りであったため、家族への大切なお土産を取りに船室に行き、犠牲となりました…













建設のきっかけになった事故の犠牲になった子供達を思うとき 悔しさの様な…

どこにも向けようのない悲しみが込み上げてきます…







   





幼くして亡くなった、たくさんの子供たちと、この事故で亡くなったたくさんの犠牲者の方への追悼の思いを込め…


心を込めてご紹介させて頂きました。





====================================================



余談ですが この船の事故をきっかけにして
全国の小中学校にプールが設置され 子供達の水泳が義務付けられるようになったそうです。




南海中学の犠牲者の数は、私の調べでは32名。
Wikipediaでは28名と書いてあり… 

調べ直します(._.)



===================================================



全体的に文章が読みづらいと思います。すみません。

なんせ、しゃべる言葉の状態で頭の中に入っているので それを文章に書き直すというのは 思ったよりも大変でした(^^;




岡山と香川の方にとっては 有名な内容かも知れませんが




読んで頂きありがとうございましたm(__)m