作曲 水野修孝
『交響的変容』
指揮者 山田和樹
読売日本交響楽団
太鼓 林 英哲
ティンパニ 武藤厚志
ソプラノ 熊木夕茉


27年という長い歳月をかけて作曲された
【交響的変容】
私はこの曲について全く知らなかったので、色々と調べてみると、次から次へと強烈な逸話が…
「あまりの大音量に会場が停電した」![]()
「合唱隊が会場内を走り回る」![]()
「長大で大規模な作品であるため、再演はほぼ不可能とまで言われた」![]()
何の予習もせず、予備知識もなくホールへ向かうことになりました。
そんな訳で…ブログの内容に間違いや勘違い、知ったかとかめちゃ多いかもです![]()
12時に始まり終わりは16時半すぎでした。
というのもマーラーやブルックナーの作品であれば「このへんでコラールが来る」とか「ここで金管群が爆発する」みたいな地図がありますが、完全に未知の巨大作品だと、次に何が起きるか本当に予測できないです。
長大な作品だと、聴いているうちに「音楽を分析する」ことから「空間を体験する」ことに変わっていく瞬間があると思いました。
「自分はいま曲を聴いているのか?それともイベントに参加しているのか?」みたいな感覚になるみたいな?![]()
再演不可能と言われていた通り、演奏そのものが一期一会なんだと感じました。
会場の空気感や合唱の物量、大音量の床鳴りそして20人の打楽器による暴力的な音圧…その場でしか成立しないなと思いました。
これはブラームス1番の「21年かけた精神の結晶」とは別方向で、
“なぜこのような作品を書かなければならなかったのか”
(作品の背景から人類皆に問うような?)
という畏怖を味わうタイプの作品だったなと思いました(個人的感想)
開演前に山田さんによるプレトークが行われました。 プレトークではさまざまなお話がありましたが、特に印象に残ったのは、「コロナ禍を経て、人が集まらないことが当たり前になりつつある現代だからこそ、多くの人が集まるイベントを行いたかった」ということ、そして「東京芸術劇場という場所の存在意義を提案し続けていくことが、我々に課された責務である」という趣旨のお話でした。
単に“珍しい作品だから上演する”のではなく、この曲を選んだこと自体に強い理念と背景があったのだと知り、深い感銘を受けました。
同時に、この作品が世に生み出された意味についても、改めて考えさせられるような気がしました。
長過ぎてあまり覚えていなくて…
特に印象に残ったことです。
第1部【テュッティの変容】
パイプオルガンの左右にはそれぞれチューブラーベルが配置されており、それだけでこの作品が長大な編成であることを視覚的に感じさせられました。
そのベルが細かなトレモロを奏で、そこへ弦楽器が繊細な音程で重なっていきます。
指揮の山田さんはプレトークの中で「自分が作曲したかのような、あるいは自分のために作曲されたかのような気持ちになった」と語っていましたが、実際に演奏でも作品への深い理解と強い意志を感じるタクトだったと思います。
弦楽器だけによる静謐な場面と、打楽器を含めた巨大なテュッティとの落差は非常に大きく、「変容」という言葉そのものについて改めて考えさせられるような衝撃を受けました。
第2部【メロディーとハーモニーの変容】
冒頭は第1部とそれほど大きな変化を感じませんでしたが、曲全体としてはどこか緩徐楽章を思わせるような性格を持っていたように感じました。
同じような繰り返しが心地よくちょっと白目になりかけた瞬間もありました![]()
第3部【ビートリズムの変容】
冒頭から激しいリズムと強烈な音圧に圧倒され、まるでスケルツォのような勢いで進んでいったように感じられました。
特に印象的だったのは、秩父夜祭を思わせる巨大な和太鼓とティンパニによる二重奏です。
和太鼓とティンパニ凄くカッコよかったです。
和の楽器と洋の楽器は見事に調和しているようでもありながら、終盤では互いの特性が最後まで完全には交わらないようにも感じられました。
また、リズムも和のテイストを感じさせたかと思えば、ペダルティンパニが音程を変化させながら洋楽的な響きを生み出し、聴き手によって受け取り方そのものが“変容”していくような感覚を覚えました。
曲の終結部では、指揮者の周囲だけにスポットライトが当たり、他が暗転するという照明演出もあり、この作品が単なる音響作品ではなく、舞台演出を含めた総合芸術であることを強く感じました。
演奏後の拍手も非常に大きく、聴衆がこの作品に深く引き込まれていたことを感じさせる締めくくりでした。
和太鼓やティンパニは前方座席を潰して配置されていました。
センターはCが最前列でサイドはGが最前列くらいでした(多分)
冒頭から仏具が加わり、編成はさらに巨大化していきました。指揮者の山田さんの左側にも男性が一人座っており、「あれはきっと噂の“9人指揮者”の一人だな」と想像しながら聴き始めました。
前半はこれまでと同様に打楽器が圧倒的な音量で響き、合唱の声が聞き取りづらい場面もありました。
ただ、その極端な音量差があったからこそ、合唱のみで提示されるショッキングな歌詞が、逆に際立っていたようにも感じられました。
15分の休憩を挟んだ後半は、合唱の方々が客席通路に走り多くの指揮者が両サイドに配置されていました。
山田さんの言葉どおり曲想が大きく変化し、合唱が主体となってかなり明瞭に聴き取れる流れへと移っていきます。途中からはマーラーの交響曲第8番を想起させるようなモチーフも現れ、栄光の聖母を思わせるソプラノがパイプオルガンの横にきらびやかに立ち上がりました。
しかしマーラーと異なり、そこには明確な歌詞が存在しないため、栄光や救済のイメージがそのまま立ち上がるわけではなく、むしろ不穏さや空白のようなものが漂っていたように感じました。単なるオマージュではなく、あえて逆説的な意味を与えている点に、この作品全体のテーマがあるのかな?と思いました。
終わりの見えないような演奏にもやがて終止が訪れ、最後は舞台全体が暗転して静かに幕を閉じました。その闇の中に何を感じ取るか…
そこにこそ、それぞれの「変容」があったのだと思います。
今回の演奏は、今後の再演が極めて困難であることも含め、伝説的なコンサートになったと感じました。
山田さんが「おそらく私の一生の中でも最初で最後になる」と語っていたように、私自身にとってもこの作品を生で聴く機会はおそらく最後になるかな。
オケでは打楽器の存在が圧倒的でした。
そして読売日本交響楽団の金管はこの長い長い演奏なのにスタミナがあるなぁと思いました。かなりの難曲であるがために音域もかなり広く、惜しいミストーンも少なからずありましたが、何と言っても4時間を超える超大曲であったにも関わらず最後まで音量が保たれていたところは凄いです。
ホルンも安定していてとても良かったです。
今回の演奏の一部をテレビで放送するみたいでカメラが入っていました(多分NHK)
放送も楽しみです。
あっそうだ
記念切手を販売されていたのですが…
300円だし、みんな並んでいるし的なノリで私も買いました。
限定300と仰っていたのに、実はもう少しあるみたいな事を最後にアナウンスしていました
えっ![]()

帰りには池袋のサンリオショップで“きゅあかわ成分”を補給し、仙太郎さんで甘い物大量買いして帰りました。

